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戯言による『失なわれた感性』への諸々なる思考と日誌
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前回の記事から三ヶ月も経ってしまいました
イスラムとヨーロッパを題材に、日本と欧米の根底においての感性の違いや
西の大陸の感性から生まれる文化思想から東の大陸に生まれる文化思想へ
そして日本列島へ導ければと今年から書き始めたのですが、
主題の「日本人の感性」について思う所があって
日本の歴史を頼りに自分なりの解答を求める事に没頭していました。
本来「イスラムとヨーロッパ」はイタリア半島南部とシチリアを書く予定でした
しかし本来の命題「日本の感性」についてこの期に書き纏め、
私自身の思考の節目としたいと、思い付くままに書き留めておこうと思います。
(この主題の流れで「イタリア半島南部とシチリア」の記事は途中で挿入する形で書こうと思います)
文脈は飛躍が有ったり内容の重複も出て来るかと思いますが容赦をお願いします。
おそらく、思い付くままの大変長い記事となると思いますので
日を追いながら(その1)(その二)・・・と書いて行きたいと思います。
 



 「日本人の感性」として歴史から風景を見出す(序)
 

歴史の中にその時節ごとの表象風景として社会の姿を眺め感じると
歴史の場面場面に地域的差異と社会階層による文化と宗教観的思想とを育む元となる感性の違いが見えて来ます、
その違いを認識するにはこれまでの一般的に認知されている日本史全体を捉えるための立ち位置を大きく変え、
もう一度出来る限り過去へ遡り検証しながら
地域世界との文化比較を行い、現在へと戻って来なければなりません。
現代は幸運にも膨大な資料の蓄積があり誰でも容易く資料を使える状況にあります、
しかしそれだけに多大な作業を要する事にも成ります、
考古学、科学、農学、史学、現代物理学、人類学、遺伝子学、生物進化学、地質学と総動員されなければ
歴史文化をつぶさに紐解くことは不可能です、
ですから私のような日曜学習者は広く浅く触れながら感じ取って行くしかありません。
しかし私のような者でさえ現在日本の歴史文化認識に大きな歪みを感じえずには居られません
その歪みが、過去の風景を歴史の流れのその時々の時節に見えるべき風景を、消し去っていると言えると感じるのです。

その表象風景を感じ見なければ私たちは何者なのか、
何を見て何を感じ生きて今に繋がって自分が存在するのか見失ったままだと思うのです。
 

自文化理解とは?
やすいゆたか氏の講文に『倫理学の講義の時などに、「ギリシア人は主知主義で、
中国人は道義主義と言われていますが、では日本人は何主義ですか?」と質問しますと、
ほとんどの学生諸君は「わかりません」と応えます。
¦中略¦つまり異文化理解をする前に、自文化理解ができていないのです。
自文化理解も出来ていないのに異文化理解ができるはずはありません。
というより、日本文化や日本思想自体が現在の日本人にとっては異文化だということなのかもしれません』
とありました。
日本の伝統文化と言われるものがあります、
歌舞伎、水墨画、能、長唄、和歌、茶道、その他色々、それから文化思想とも言える、武士道、もののあわれ、わびさび、
これらに触れる時、私たちは知識によってどのようなものかは認識確認は出来ます
(個人差は大きくあると思いますが)おおむね大半の人は今の私たちの生活に繋がる感覚は殆ど無く
異文化に近いものを心情の片隅に覚えるのではないでしょうか
しかし、地域の伝統文化において
奄美の人々は島歌にこのような感覚を覚えるでしょうか、
津軽の人々は津軽三味線にそのような差異感覚を感じるでしょうか、勿論否だと思います。
日本伝統文化に日本人は異文化感覚を覚え、地域のその人々には地域伝統文化に差異感覚を覚え無いのなぜでしょう。

日本の歴史と言うものを時代ごとに地域や階層を見渡せる立ち位置に変えて振り返る事で、
なぜ差異感覚持ったり持たなかったりするかが見えて来るのではと私は思うのです。
前記にある「歌舞伎、水墨画、能、・・・・・・もののあわれ、わびさび」は
現在の日本の教育で歴史を学ぶと歴史とこの日本文化はリンクし認知できます
しかし、地域文化は歴史観から全くリンクするものは有りません
それで私は現在の高校教育で学べる歴史を古代から現代までを見てみましたが
地域文化へ繋がる歴史観も階層の歴史認識も僅かにしか無く、
辛うじて「民衆の目線に立つ歴史」と言う言葉を謳っているだけで
歴史教育は私の体験的に知っている五十年間の立ち位置は何も変わっていないとも言えるほどです。
学ぶ者にとっては「民衆の目線に立つ歴史」を感じる目に見える形で、
手にとって学ばなければ地域文化へリンクする歴史観も生まれて来ません。

私の祖先は縄文時代どのように生活し何を考え感じ生きていたのか
私の祖先は平安時代どのように生活し何を考え感じ生きていたのか
私の祖先は江戸時代どのように生活し何を考え感じ生きていたのか
その歴史の時節に私が生きていたらどのように生活し何を考え生きるのだろうか
一体どのように想像したら良いのでしょう、
悲しいかな時代に自分が祖先が暮らしている風景は感じることも想像すら出来ないのです。

現在と歴史とはどのように繋がって文化は流れ今の風景に至っているのでしょう
その時節ごとの歴史風景を教育やメディアから得た知識や経験では
全く想像すら出来ないのが現在の日本史観であり自文化理解ではないかと思います。
「ひとつの日本」と言う観念もその障害となっています、
北と南、西と東、山岳地人と平野人、アイヌ人や琉球人と本土人、海の暮らしと森の暮らし、平民と支配階級、
歴史も暮らしも違います、ある時代にはおそらく民族も違うでしょう、
何故その暮らしと多様な歴史と流れとをありのままに日本の歴史と文化だとしないのでしょうか?
それらが有ってこそ、主義、思想、文化と暮らしが在り今に繋がり、
『では日本人は何主義ですか?』との質問に答えられるのではないでしょうか。
しかし、その多様な文化と暮らしの歴史をつぶさに見ていくと、一つの日本人らしさ、
アイデンティティとも言える主義、思想、文化を育む独特の多様性の有る歴史的文化に通じる
一つの「日本人の感性」が根底に流れていること気付き突き当るのです。
 
私がこの「日本人の感性」に突き当たり認識したのは数ヶ月前の事ですが、
ついこの前、梅原猛氏がほぼ同じ考察に至っている事を知り色々な意味でショックを受けたのでした
梅原猛氏は「日本の叙情的主義」と捉えています、
私は「日本人の感性」ですが突き詰めれば同じ意味だと思います、
私はその感性のあり方を西欧のそれと比べ、天動説と地動説に例えられると考えていたのですが
氏は『プラトン以降の西洋形而上学を、人間の観念で作り上げた神やイデアの世界や主観的な理性を中心において
世界を解釈する人間中心主義の天動説であり、
観点を逆にし自然中心の地動説の哲学を創らなければならない、
日本文化論とは、西洋の人間中心・理性中心の「理論的文化」に対して、
東洋の自然中心・生命中心の文化、日本の「情を重んじる文化」を対置するもの』
と言っているのを他者の記事で知ったのです
この一文を氏は著書に書いているのか私は知りません(数年前、縄文思想で氏の考察と一致を体験してから
同じ方向性に立って居るようなので梅原氏の言葉に道筋をひかれるより自分で模索し思考を引き出したい
と言う思いによって氏の著書は読まぬよう避けているからです)
私など氏と並べ様にならない浅く狭い知識と鈍重な思考と僅かな経験しか有りませんが、
酷似した見地から天動説と地動説などを比較例として使っているだけで無く、自己か自己の外側か、
どこに基軸を置くか、それで何が生まれるか、私は氏と同じところを感じ見ているのだと解します。
これらの事柄について現時点の私的考察の節目として、
歴史を軸に時節ごとに日本の風景を感じる事で日本人の感性が具体的に説明出来るよう書いていければと思うのです。




 角度を変えて日本史風景を見る(その一)


此処より前半に現在の高校での歴史授業から見る旧石器から江戸時代までの史観を簡単に書いて見たいと思います。
多くの人はこんな事を書いても読むほども無いと思いますので斜め読みをして貰っても構いませんし、
復習のつもりで読んで貰うのも、または私の誤認を見つけて頂く意味で一応読んで頂くのも良いかと思います、
現在の高校教科に準じて書くつもりですのでひょっとすると
ご自身の受けた昔の授業との数十年間の変化も見出せるかも知れません。
その後、後半で立ち位置を少し変えて同じ旧石器から江戸時代までの歴史観を
私の私的観点からもう一度書いてみたいと思います。
私はどちらも史実だと思って書くつもりですし
前半と後半の比較から私たちの歴史観に疑問への道を感じて頂ければと思うのです。
その歴史観の差異への疑問を感じる所から「日本人の感性」への入り口と出来ればと思います。
 

では旧石器時代からヤマト王権時代までを簡単に書きたいと思います。
日本では一万三千年前頃からの縄文時代より前の時代を先土器時代、または無土器時代と呼んでおり
これを旧石器時代と言います
地球の平均気温は、約二万年前に最低になっています
これは最終氷期という時代(約七万~一万年前)の中でももっとも寒冷な時期でした。
氷期は、寒冷なだけでなく、海面も今より百メートルほど下がっていたと推測されます
旧石器時代の人々は、定住せず採取狩猟を行い頻繁に移動生活を繰り返す生活を送っていたのではないでしょうか、
旧石器時代から縄文時代への移行期には一時的に特定の場所で生活する
半定住生活を送るようになっていたと考えられます。
旧石器時代の日常生活の場としての拠点遺跡や石器製作場遺跡などが発掘されていますが、
定住住居跡と見られる出土例は殆んど無く、
旧石器時代は一定の生活領域内を移動しながら生活拠点に集まり採集狩猟生活をしていたと考えられます。
この旧石器時代に伊豆の神津島の黒曜石が海を渡り北は栃木県まで西は三重県まで流通していたことが判っています
1万3千年前頃から土器を生産し出した縄文時代に、急速な温暖化が始まりました、
6千年ほど前には今より高温となり縄文海進と呼ばれる日本列島の平野部が海に没する時期と成ります。
縄文時代の人々は、温暖で豊かな自然の中で数十人単位(三内丸山遺跡では二百人からの集落と思われる)の集落を
丘陵地に中心とし定住し、狩猟や採集を行なう一方、
有益な植物を選んで栽培することも始めていたと考えられています。
遺跡から栽培されたであろうクリやクルミ、さらにイネなども発見されています。
しかし、縄文時代の終わりに、大きな変化が起きて世界的に気候が寒冷化し、豊かだった資源が少なくなってしまいます。
やがて、朝鮮半島を中心に大陸から九州北部や島根へ西日本へと新しい食糧確保の方法として水田稲作が
伝わり縄文土器は弥生土器と変化し弥生時代と成ります。
二千五百年~二千六百年前のものと推定される佐賀県唐津市の菜畑遺跡は、
日本ではじめに水田稲作が行われたとされている水田跡です
水田稲作の技術は、西から東、さらに北へと広まっていきます。
弥生時代中期になると、鉄で出来た工具が普及し耕作能力が高まり大規模な集落が現われ、
佐賀県の吉野ヶ里遺跡のような数百人もの人が住んでいたとされる集落、
「外濠」「内濠」が二重に掘られた大集落も出来てきました。
北部九州から東北地方へと大小の環濠集落が現われ
列島内や中国との交流も盛んになり
権力文化と権力闘争も始まり、権力者の墓には豪華な副葬品を伴い出土する例もあります。
中国の王朝・後漢の歴史書に、建武中元二年、一世紀中ごろ、倭奴国から王の使いが来た、
それに対し後漢の皇帝が印を贈ったと書かれています。
江戸時代の後半、福岡市志賀島でその金印が見つかりこの記述が裏づけられたのです。
その頃、北海道では水田稲作は行われず鉄器を持った「続縄文文化」へと移行し、
沖縄は水田稲作の無い「貝塚文化」の時代であり沖縄の貝殻加工品が北海道まで流通していました。
そして後漢の歴史書にある倭の中に、3世紀前半、卑弥呼で有名な邪馬台国が成立します。
その後、近畿地方を中心に全国に巨大古墳が作られ、大和地方の王を盟主とした王権が生まれたと考えられます、
これをヤマト王権と呼びます。
魏志倭人伝に『倭国乱れ、相攻伐すること歴年、及ち共に一女子を立てて王となす』
とあるように内戦状態は遺跡発掘により裏づけもされ、
卑弥呼に代表される権力の集権も始まり権威権力を誇示する巨大前方後円墳へと繋がってゆきます。
巨大前方後円墳の埴輪など一連の出土品は強く朝鮮半島の影響を受けており、
また朝鮮半島南部に前方後円墳も近年発掘され、
五世紀中国の宋書簡「宋書倭国伝」とによってヤマト王権が、
百済、新羅、任那、加羅、など朝鮮半島との諸軍事に関与していたことの裏づけともなっています。
埼玉古墳群で一九六八年「稲荷山古墳出土鉄剣」が発見され
一九七八年には鉄剣の金象嵌文字による文がX線解析により、
この地方がヤマト王権である倭の五王直属の支配下であったことも解り、
群馬県三ツ寺遺跡では一九八〇年代に日本で初めて九〇メートル四方の柵と堀を持つ豪族の館も発掘され、
出土品や館跡の構造の分析により地方も朝鮮半島と強いの結びつきだけでなく
朝鮮半島からの渡来人も豪族となっていったと認識されるようになりました。

次回は日本の古代へと進みたいと思います。
 




















  
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