忍者ブログ
戯言による『失なわれた感性』への諸々なる思考と日誌
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

WWFジャパン、新しいエネルギー社会を作る時!120万人署名にご協力を!
http://www.wwf.or.jp/activities/2011/05/986120.html

これ以上、欲のために未来に負の遺産を残す事を許してはいけない。
何が本当の未来への努力かを考え実践してゆくための岐点が今だと思います。
私達の先人である親は戦後、豊かさへの努力をして現在を造ってくれました、でも弊害も起きてしまいました。
では私達が行うべき努力は何なのかが問われ、原発をどの様にすべきかはその問いのひとつだと思います。










    
PR

月二回くらいのペースですが一日絶食をして前後の食事をお粥にするだけなんですが
それだけで色々身体が変化します。
まず体臭が無くなり汗をかいても臭く無くなります
無駄な食欲が無くなり体重が減りだしました。
実は医者との話しで何とかしてHDL善玉コレステロールを上げようと言う一環で始めたのです
私の色々な病巣と成ってしまった心臓を医学治療と自助力で何とかしなければ、もう後が無くなってしまったからなんですが ^^;
まだ始めて一月、今年中には治療と両方でそれなりの結果を見られると思うのです。
それでちょっと思う事を自身の反省を込めて。

腹八分目と断食が長生きのDNAを働かせミトコンドリアと免疫細胞を活性化し脳の老化も抑え病気にも成り難くなるとか。
現代科学医療がその体内システムをつきとめ、薬物的に長生きのDNAを働かせようと今アメリカを中心に研究が盛んに行われています。
そのDNA遺伝子が若いうちから働き始めると20年から40年は健康に寿命が延び
当たり前のように100歳を越すと言います。(NHKでも取り上げていましたね)
そう言えば古代の伝記記述によく100歳以上生きた賢人達の事が書かれていますが
飢餓が有り粗食に生きた時代なら本当の事なのかもしれません
古代記述中でも当時の史記などになるとその異様な長寿の記述は見られなくなります
きっとそれは史記を記述する環境が一部の特権階級と言う飽食の古代権力に生まれた文字文化だったからかもしれませんね。
犬や猫も病気に成ると食を絶って回復を促し、古代から人類も断食の習慣を持っています、その重要性から宗教とも深く係わりが有ります。
断食は飢餓を乗り越えるため哺乳類の知恵とも言えるDNA遺伝子によって子孫へ託されたものなのですね。
新人類はアフリカを出て10数万年の時を経て地球上に広がり生きて来ました
今、多くの人類が車を運転し三食充分に好きなものを選び食べられると言う幸せの中に生活しています(貧困をどの様な価値観で捕らえたかも問題ですが、今も世界には十数億人が所得から見た貧困の中に暮らして居ます・・・)
しかし、歩かず考えず食べだしたのはつい最近千年から100年前の支配階級から庶民へと広がりだしてからのことです。
しかもその幸せは50年先、100年先の子孫達に負担を押し付け未来から搾取している事に目をつぶっています。(自然とのバランスを崩し破壊し多くの他種生命を絶ってしまい未来の自然への不安を作ってしまいました、そして原発の運用もそのひとつです)
歩かず考えず飽食に生きようとする現代はなんと言う愚かさなのでしょう。
自らを先進国と名乗る者達は後進国と言う名を着せつけた土に生きる隣人達から搾取する社会を、高度現代文明と呼び信奉しています。
その姿はまるで自ら滅んだ巨大古代文明の愚かしさそのままです。
飢餓の中に生きた縄文の人達ならこの様に言うかもしれません
「使うためにあるものを使わなければ駄目になるよ。
何を食べるために日本人は腸が長いの?
腸を昔のように使わなければ病気になるし
豊かだって言って沢山食べれば早く死ぬさ。
飢えは人と人が美しく助け合って生きるためのもの
それを不幸だって言う社会に何の価値と喜びがある?
貧しいって自分達社会が造った思いなのさ。
しんどいからって歩かなければ身体が弱くなるように
やっぱりほんとの事を知ってよく考えなきゃ頭もパアになるよぉ」って。








        
 
この災害の中でしなければならない事について
 
被災者の救援とそのためのプロセスに対し私が出来る事を行う、それ以外にも被災していない私達がしなければならない事に付いて考えた事を書き留めて置きたいと思います。
それは「日本はこれからどの様になって行くのだろうではなく、どの様にして行かなくてはならないのか」なのです。
これからと言うのは遠い未来ではなく明日からの事としてです。
 
11日以降、原発の仕組みと問題点や福島原発の事故状況、現在東芝が世界の原発シュアの30%を占めるに至った経緯と情勢、避難所の状況と過去の災害支援の在り方などなど、始めは情報収集とその事柄に付いての知見を深める事に終始していましたが、それらを知れば知るほど色々な疑問が次々に湧いて来ると同時に被災地と原発の状況が刻々と変化して行き何をどの様に考えて良いのかも解らなくなる事もしばしば有りました。
そして今日、10日程が過ぎいくらか頭が整理されて来たので書き留めて置こうと思います。
しかし答えに到達出来ないであろう疑問と想いが有り、それは強烈に私の思考を止めてしまいます。
 
この災害は原発による電力の安定供給が今の日本の経済と文化を支えているのは言うまでも有りませんがその実感を私達はどれほど持っていたのか、これからその実感を持って将来へどの様なビジョンを持たなくては成らないのかを考えさせられ、今まで深く強く考えて居なかった事を痛感させられるのです。
 
その考えなければ成らないであろう私なりの疑問と問題点を昨日より書き出していたのですが、ひとつの項目を挙げれば関連した疑問が次々に浮かんで来て又その疑問が他の疑問に関連し、許容量の少ない脳は混乱してしまうのです。
そこで今日、大前研一氏の講話がYouTubeに有り、大変有用に私の多くの疑問を整理してくれたのでURLをリンクします。
決して大前氏の将来への知見と答えが全て良いとは私には思えませんが、その物の見方と分析による問題点の抽出は素晴らしいと思います。
是非、このブログを訪れた方に観て考えて欲しいと思うのです。
 
と同時に、私がこの一週間行ってきた知見とはまるで逆とも言える想いも有るのです。
昨日Twitter見かけたメッセージに感じる私の想いはもう一つの私の存在を見せ付けるかのように捉えて離しません。
それが「答えに到達出来ないであろう疑問と想い」なのです。
Twitterにあったメッセージとは以下のものです。
福島第一原発から20キロのとある小さな町。老人ばかりの町。そこから必死に日本海方面へ避難している途中の友人の携帯に、近所のばあちゃんから電話。電話をとると。『畑さ撒くねずみ捕り余ってねえべか?』福島原発のすぐそばで。今も、いつも通り畑を耕し、野菜をつくっている婆々がいる。」
きっと二葉町に住んでいた人が避難勧告を受け30キロ圏外へ避難しそこから日本海方面へと又避難している最中に近所の婆ちゃんから電話が有り、友人がまだ20キロ圏内に避難していない婆ちゃん居るから保護をとTwitterで発信したものだ思うのです。
 
私はこの婆ちゃんの様に生きたい、この様な人と暮らせる社会に生きたいと思うのです。
大地に働き全てを受け入れ、生かされている想いを持って暮らす
明日からの日本の在り方を考える未来と、なんとこの婆々の生き様のかけ離れてることか。






















 

   明けましておめでとうございます。

 
皆様のこの新年が実り有る年でありますように。

記事、書きますので
              宜しくお願いします。



272f01da.jpg 









根府川からの初日の出         






           
              書くべき
                 題材多すぎて
                     書くに書けないブログ記事・・・










































 








 
 


 
 
  角度を変えて日本史風景を見る(その一) 日本の中世
 
 
この日本の中世と呼ばれる四百年強の時代を一気に進んで江戸時代へ入った所で教育における日本史を終えたいと思います、
この中世史は先ずあらかたの時代を書きまとめて後、年表でその歴史の流れの確認とその時代の文化に触れて、
歴史認識を機軸とする日本人の感性への探求、基礎中の基礎の復習と再確認をして、その見地に立つ始まりとし、
その入り口に立ちたいと思います。
そして次回より私の私的な歴史の見地に立って書いて行きたいと思います。
 
 
 
 平安時代から鎌倉時代への流れ
四百年近く続いた王朝国家体制と平貞盛によって栄華を極めた摂関政治による平安時代にも変化が現れ、
源氏武士の台頭により平安時代は終わりを告げる事に成ります。
十二世紀終わりに始まった武士による政治体制下の時代を鎌倉時代と呼び、頼朝によって政権は鎌倉の地に移されました。
十三世紀前に承久の乱によって公家は武家政権に従属し御家人の筆頭である北条氏による執権政治が確立しました。
十三世紀中期頃から、貨幣経済の商品流通が活発になり、
地頭となった武士による荘園公領での支配が強くなって大きな社会の変化が起こり始めました。
この変化は元寇(蒙古襲来)の影響もあって強くなり、各地で「悪党」など野党集団が起こり荘園や公領の社会変化を生み、
徳政令発布や得宗専制という政策が行われました。
文化的には運慶と快慶の東大寺南大門金剛力士像など写実的な美術が展開し、
宗教では鎌倉仏教成立により一遍などによる民衆仏教も普及していった時代です。
(琉球地方は長く続いた貝塚時代からグスク時代へと移ります。
北海道は紀元前からの続縄文文化が飛鳥時代には擦文文化へ変化し
この時代に鉄の伝播によってアイヌ文化となって行きます。
また、ヨーロッパでは東ローマ帝国やフランク王国が各王国へと分裂し、
オスマントルコやビザンチン帝国の台頭の時代でもあります。)
 
 
 
 年表にそって平安時代末期から見て行きましょう。
千百七十七年、武士である平清盛と対立し院政を行なっていた後白河院の近臣らが清盛ら平氏打倒を計画しましたが、
清盛に計画は漏れ関係者は処分されます。
千百七十九年、清盛は武力で後白河院を京都郊外の鳥羽殿に幽閉し院政を停止、自らが政権を握る。
千百八十年、清盛は娘徳子と高倉天皇の間に生まれた三歳の孫の安徳天皇を即位させた。
そのため天皇継承から外された以仁王は、源頼政とともに諸国の武士や有力な寺院に挙兵を呼びかけ、
平氏打倒へと挙兵します。
そして六年間に及ぶ源平の戦いを含む「治承・寿永の乱」が始まります。
十月、以仁王の令を掲げ流刑となっていた頼朝が東国で挙兵し富士川の戦いにより平氏の大軍を破る。
頼朝の家来となった御家人たちは頼朝を「鎌倉の主」と呼びました。
同年の暮れに東大寺や興福寺が焼け落ちます。
千百八十一年清盛死す。朝廷によって重源の東大寺復興事業が始まります。
千百八十三年、頼朝は後白河法皇から東海道・東山道の支配を認められる。
一方同年、信濃で勢力を強めた頼朝の従兄弟、河内源氏の源義仲は北陸の倶利加羅峠の戦いで平氏を破り、
二ヶ月後には京都で平氏を都から西国に追いやります。「平家一門の都落ち」
しかし、義仲は後白河院と対立するようになり、頼朝の弟、義経に滅ぼされます。
千百八十四年二月、その後義経は一の谷の戦いで平氏を退け、
千百八十五年、義経は屋島の戦いで、平氏を破ります。同年、東大寺の大仏開眼供養が行われました。
三月二十四日、関門海峡の壇ノ浦で西国の武士の加勢を受け最後の戦いが行われ、平氏を滅ぼしました。
同年、頼朝は各地に「守護地頭」を置き実権を強めて行き、頼朝と義経の兄弟の対立が深まります。
その後、義経は奥州平泉の藤原秀衡にかくまわれますが、息子の藤原泰衡によって殺されます。
千百八十九年、頼朝は御家人制を確立しようと平泉に攻め入って藤原氏を滅ぼし東西の実権を握って行きます。
このように平安時代の貴族から成る武士を筆頭とする武士同士の戦い「治承・寿永の乱」は終結しました。
 
 
 
 千百九十二年、頼朝は征夷大将軍となり鎌倉幕府成立と成ります。
(幕府成立時期について諸説ありますが現高校教育では千百九十二年としています。)
千百九十五年には大仏殿が完成し大仏殿落慶供養が行われ、頼朝は新しい権力者として仏教を尊重する姿勢を示しました。
千百九十九年頼朝死す。頼朝の息子で独裁的な頼家が跡継ぎになり、
母である北条政子が実権を握ろうと画策し出します。
千二百三年、病に伏した頼家を北条政子は伊豆に出家させ後に暗殺します、
政子は頼家の弟である実朝を将軍に据え執権についた政子の弟である義時と共に権力を強めて行きます。
同年、東大寺復興が終了。
千二百十三年、義時は頼朝以来の有力武士である和田義盛たちを挑発して滅ぼし権力を強めます。
千二百十九年正月、実朝が頼家の息子の公暁に鶴岡八幡宮で殺されます、これにより第4代将軍に二歳の藤原頼経が成り、
北条政子は後見人となって、執権の義時と共に実権を完全に握ります。
千百二十一年、後鳥羽上皇は権力を握った北条氏と対立し、北条義時追討令を発します、
それに対し政子は上皇との対立の意を幕府対公家の逆臣との戦いだと言うすりかえにより、
東国武士を結集させ「承久の乱」を起こし圧勝します。
後鳥羽上皇は対馬へ流されました。
 
鎌倉幕府が成立して暫らくすると、源平合戦の時に頼朝により各地に置かれた「守護地頭」が、
荘園領主との摩擦を生み農民を苦しめ年貢が滞るようになります。
その処置として幕府は「地頭請」や「下地中分」を定め地頭と領主の関係を律し統治を図りました。
千二百三十一年、寛喜の大飢饉。
千二百三十二年、飢饉の混乱の修復を含む武家諸法度である御成敗式目制定し政治の安定を図ります。
千二百五十七年 鎌倉の大地震により鎌倉の街は大打撃を受ける。
千二百五十八年 正喜の飢饉、地震飢饉と幕府は翻弄される。高麗がモンゴルの属国になる。
この頃から悪党の活動が激化する。
(悪党とは、荘園や公領の内外でから荘園領主や幕府に武力で対抗する人々を悪党と呼びました。)
千二百六十四年、モンゴルが樺太遠征。
千二百六十八年、フビライの国書が高麗からの書状として鎌倉に届きます、この時に北条時宗が執権となっています。
同時にモンゴル軍との戦に備えも始まります。
千二百六十八年、高麗で三別抄の乱が起こり、翌年に高麗牒状(三別抄からの救援要請文)が日本に届きますが公家は理解できませんでした。
千二百七十二年、三別抄の乱がモンゴルに敗れ日本の危機が迫る。
千二百七十三年、文永の役。モンゴルと高麗の十四万近い連合軍が博多湾岸に現れ上陸、
肥後国の御家人たちが迎え撃ちますが大敗し博多まで上陸されます、しかしなぜかモンゴル軍は突然撤退します。
千二百七十九年 南宋が元となったモンゴルに滅ぼされる。一遍の踊念仏が始まり民衆によって盛り上がる。
千二百八十一年 二度目の蒙古襲来、弘安の役となります。
文永の役での教訓から作られた九州各地の防塁効果や戦法と、
偶然起きた暴風によって打撃を受けたモンゴル軍を小船による夜間の奇襲攻撃などによって撃退しました。
千二百八十二年 一遍が鎌倉に入る事を幕府は拒む、踊念仏は益々高まる。
千二百八十五年、霜月騒動によって北条氏の本家の流れ「得宗家」が台頭して来ます。
千二百八十九年 一遍没する。
千二百九十三年 関東一円に大地震、鎌倉は甚大な被害にさらされる。
この頃には悪党の集団は大きく武装化が益々進みます。
得宗家の力が強くなるとともに、得宗家の家臣が幕府の政治をにぎり、領地も拡大していきました。
貨幣経済の発達によって疲弊した御家人も増え不満が高まっていきます。
千二百九十七年、永仁の徳政令が発布され御家人の救済を行いますが、
逆に借金を行えなくなった御家人が多く困窮して行きます。
千三百十八年に即位した後醍醐天皇はは自分の子に皇位を継がせたく思い、
やがて政治の実権を天皇にとりもどそうと考えます、
皇位継承による二つの系統が対立したために幕府によって定められた両統迭立を無くすためでした。
千三百二十四年、鎌倉幕府打倒を図りました。正中の変。
千三百三十一年、朝廷の皇位継承をめぐる争いがあり、後醍醐天皇は再び倒幕を図り失敗し、幕府に捕えられ退位をせまられ、
千三百三十二年に出雲国、隠岐に流されましたが、息子の護良親王が吉野で挙兵し、
河内の楠木正成も悪党ら反幕府勢力を結集し挙兵しました。
千三百三十三年、後醍醐は壱岐を脱出。
幕府から後醍醐討伐を命じられた足利尊氏が反旗をひるがえし京都にある幕府の六波羅探題を攻め落としました。
同じ時期、御家人の新田義貞が倒幕の兵を起こし鎌倉を攻め北条氏を倒し、
百五十年ほどの鎌倉幕府は終わります。
鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は京都に戻り、鎌倉幕府が立てていた光厳天皇を退位させ、天皇自ら政治を行います。
この政治は、千三百三十四年に年号が建武となったため、建武の新政と呼ばれます。
 
建武の新政による政府の雑訴決断所は訴訟に対応する機関であり天皇直轄となっていました、
それは律令制度の機構であり鎌倉幕府の行政機関を取り込んだものです。
その事によって天皇からの恩賞や土地の所有権確定は、天皇の決定を記した文書が最優先となり、
武士は軽視され、過去の経緯などは無視されました。
それにより武士の新政への批判が高まっていきました。
 

 
 大覚寺統の南朝と足利氏が支援する持明院統の北朝。
大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政によって天皇専制の政治が行われましたが、
武士層の不満が増すと、足利尊氏はそれを背景に大覚寺統の新政から離反して持明院統を擁立し北朝となります。
荘園公領制の変質により社会各層における対立が強まり南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開します。
後醍醐天皇側の南朝は一時、九州全土を支配し勢力を強め、
千三百五十年、北朝側は尊氏と部下の高師直と尊氏の弟の直義と対立により観応の擾乱を起こします。
直義は翌年には南朝へ就きます。
武士達が一族内の抗争や荘園領主と近隣の武士同士による領地争いの対立を起こし、
この対立関係が南北両朝の対立とも結びついたため六十年間の複雑な内乱となって行きました。
 

 
 幕府が京都の室町に置かれ政権が確立し室町時代となります。
千三百三十六年、後醍醐天皇と対立した足利尊氏が持明院統の天皇を擁立し幕府を開きましたが、
京都に本拠を置いた幕府は朝廷の権能を次第に侵食し朝廷は政治実権を失っていきます。
また各国に置かれた守護は、幕府による経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて国内支配力を強め、
国衙機能を取り込み守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制が出来て行きます。
守護大名を束ねた幕府は、守護領国制を基にした相互補完的な支配体制を確立して行きます。
千三百七十七年、倭寇朝鮮侵略がピークに達する。
千三百九十一年、明徳の乱で幕府軍の優勢が確立。
千三百九十二年、三代目将軍義満によって南北朝が統一され武家政権となりました。
千三百九十七年には金閣寺を建立し、日明貿易により明皇帝から日本国王として認められました。
また幕府は鎌倉公方を置き、その補佐機関として上杉氏による関東管領を据えます。
しかし治世は守護大名の勢力拡大が強く幕府側と守護の戦乱が多数発生し
鎌倉公方も幕府と対立して数十年もの間、永享・享徳の乱が続き鎌倉の地は荒廃し
東国は多くの築城が進み一足早く血生臭い戦国期化して行きました。
西では守護大名と幕府との守護体制は十五世紀半ば近くまで続きました。
千四百八年、義満が亡くなる。
千四百十六年、元寛等管領の上杉禅秀が鎌倉公方の反旗をひるがえす。
千四百十九年、朝鮮軍が倭寇への報復に対馬を攻撃。
千四百二十八年、正長の土一揆に幕府は翻弄される。この頃より民衆の連帯組織が支配階級へ政治的要求をし
紛争へと発展して行きます。
千四百四十一年、嘉吉の土一揆は三万にもなり京都を襲います。
千四百六十七年から十一年間の、家督争いや幕府の実力者たちの対立がからみあう、
応仁の乱によって室町幕府は揺らぎます。
千四百八十二年、京都東山に和風建築の基となる禅宗による銀閣寺が立てられます
文化的に、連歌・猿楽・茶道など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化が栄え、
国人による連歌の会などが出来、一揆と結び民衆の支配を行い守護と対立するように成ります。
そして、荘園の領主や地頭の系譜である国人の率いる一揆を含む内乱が続き、力を失墜させていった幕府は分裂し始め、
千四百九十三年、明応の政変を機に、ついに崩壊しました。
 
 
 
 十五世紀後期から十六世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼びます。
この時代は、守護大名や国人などを出自とする戦国大名が登場し、
それら戦国大名勢力は封建的な支配体系を徐々に崩して各地で自立化が強まって行き、
支配地であった領国地は地域国家へと発展し、日本各地に多くの大名領国が現れて行きました。
地域国家間の政治や経済の問題は武力によって解決が図られる様に成ります。
東国では十六世紀になると、小田原に本拠に持つ北条氏が関東に進出してきて戦乱は劇化して行きました。
そうした流れの中で十六世紀半ばに登場した織田信長は、
兵農分離などにより自領の武力を強力に組織化して急速に支配地域を拡大していきました。
またその頃、火縄銃やキリスト教が伝来し、それまでの戦術や日本の宗教観念に大きな影響を与えました。
 

 
 そして安土桃山時代と移ってゆきます。
織田信長は室町将軍足利義昭を放逐し、室町幕府に代わる畿内の安土に政権を樹立しました。
しかし、信長が本能寺の変より滅ぼされ、天下統一の目標は豊臣秀吉に引き継がれました。
秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定し国家統一をおこないました。
秀吉もまた中世的支配体系の改革を行い、太閤検地や荘園公領制をしいて職の体系を消滅させました。
秀吉は明を攻めようと二度にわたり朝鮮への出兵し暴虐を行いましたが、その最中に死去します。
後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化していきます。
秀吉による天下統一は、政治や経済の安定がもたらされ武士を中心とした豪壮な桃山文化を発展させます。
 

 
 江戸時代へ
千六百三年、秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して権力を握り江戸に幕府を開き、大坂の役で豊臣氏を滅ぼしました。
この後幕府は、十七世紀半ばまでに武家諸法度の発布し参勤交代の義務化を行い有力大名の改易などを通して、
諸大名との主従制を確固たるものとし、また朝廷統制を強め、幕府官僚機構を整備し、
鎖国を完了し安定した政治と文化を作って行きます。
 
 
 
 此処までを現在の高校教育での歴史として、要約を終わります。
最後の戦国期から江戸へは私が書くまでもなく良く知られていますので、
年表を辿るまでも無くウキペディアを参照に簡潔に済ませました。
また、江戸期以降は資料も豊富でその時々の事象を、見地を変えて比較ではなく掘り下げることをして行きたいと思っています。
ここまでの記事で、年代によって少々こだわって書き込んだ所や、簡素過ぎる所も有りますが
次回からの私的見地での歴史記事の絡みも有り、あえての要約の積もりで書いて居ます。
気が付いたら要約密度がバラバラだったと言う方が多いのですが・・・
こうして書き出して見ますと、三十年ほど前の歴史観と随分変化も見られます
しかしその歴史認識のスタンスは、西洋的理論展開による分析史学的立場を全く変えていません。
私は、上から目線の分析史学を否定するのではなく、それも一つの歴史観だと捉え多面的史観の確立を望みたいのです。
でないと日本の歴史に於けるその時々の人々の暮らしと風景は感じる事が出来ません。
これは、過去に共産主義が一時期、民衆の為のものとして広がりを見せたにも係わらず受け入れられず衰退していった理由でもあり、
西洋的理論展開と言う上から目線による主義主張をもって民衆を捉えていたと同じ意味を持ちます。
そして、
日本人には共認とも呼ばれる独特の認識の共有感とともに、この「意味」は価値観・芸術観・人生観にも大きく作用します。
 
 では、次回より歴史の事象を中心に、これらの事を少しでも具体的に顕わにし書いて行ければと思っています。
























 








 

 
 
 
角度を変えて日本史風景を見る(その一) 日本の古代(平安時代)
 
 
ここで最初に仏教についてすこし、
現在の高校教科書には仏教の流れを変化としては記されていないようですが、
私としては大変重要だと思いますので飛鳥時代からの流れを簡単にまとめて、
教科書にある平安仏教を書きたいと思います。
 
飛鳥時代に仏教が伝来し、貴族仏教と貴族統一統合神道の融合化がおこなわれました。
平民にとっての民間神社信仰は民衆を統一するための神道として用いられ、
貴族は仏教を中心に信仰し、同時に統一神道の祖ともなりました。
奈良時代には仏教が次第に民衆にも浸透してゆき、仏教と民間山岳信仰の融合などにより修験道がおきます。
平安時代は民間の間にも本地垂迹説が浸透し、神仏習合化が進んでいきました。
本地垂迹説とは日本の八百万の神々は、実は様々な仏や菩薩が化身として日本の地に現れ権現となったとする考え方であり、
神仏習合化とは神道と仏教を両立させるために、奈良時代から始まっていた神と仏を同じものとして一緒に祀り合理的に整合させたものです。
簡単に書きましたがこのように仏教の流れの変化が民衆統治を表しているのを見落としてはなりません。
 
では教育現場での仏教について少し。
桓武天皇は遣唐使の一員として空海・最澄達を中国へ送り密教を学ばせ、
高野山(真言宗)と比叡山(天台宗)とに寺を置き密教を広めました。
また浄土信仰が広まり貴族達も阿弥陀仏を求め宇治の平等院を建立しました。
平安時代の後期には政治的後ろ盾により富裕化した寺院は武装化し
僧兵となって勢力抗争を起こすようになって行った時代が平安時代の仏教と有ります。
 
ちょっと見地の違いを見る文を書いてしまいましたが、
私たちが一般的に認識する歴史とは重大な要素が抜け落ちてはいないでしょうか
私たちが日々目にする、または参拝したり式を行う神仏は私たちの祖先の暮らしの中で、
どのような遍歴を経て今に至っているのか歴史を生活の中で感じ取れなくては
何を文化として未来へ繋いだら良いのか解らなくて当然のように思うのです。
 
 
 
では教育における歴史へと戻ります。
 
平安時代とは現在の京都市中心部に桓武天皇により都として平安京が置かれ、
鎌倉幕府成立までの三百九十八年間を指します、
桓武天皇は平城京から長岡京を京都盆地の南西に作らせましたが二度の洪水によって七百八十四年、平安京へと遷都しました。
平安京は明治の初め首都が東京となるまでの千年の間を都とされました。
その平安時代の初頭は桓武天皇から平城天皇へと、そして嵯峨天皇へと中国から取り入れた律令政治の立て直し時代であり、
文化は中国からの唐風文化時代です。
桓武天皇は、蝦夷を征服する戦いを三度行います七百八十九年この時は蝦夷の指導者アテルイに負け巣伏(すぶし)の戦いで大敗北を喫します。
八百一年、坂上田村麻呂を征夷大将軍とする3度目の遠征により田村麻呂は蝦夷を制圧し、胆沢城を築きアテルイとモレは降伏し、
田村麻呂は現在の盛岡市に志波城(しわじょう)を造営し蝦夷を征服しました
その後、桓武天皇は亡くなり平城天皇へと移行しますが嵯峨天皇との「二所朝廷」となり争いに勝ち、
蔵人所や検非違使の設置、弘仁格式を施行することによって平安京は「万代の宮」「千年の都」となります。
平安時代半ばになると藤原道長に代表される摂関政治が行なわれ
文化は唐風文化を土台に人間の微妙な心理や複雑な人間関係を鋭く描いた紫式部の「源氏物語」など、
日本の美意識である日本風の文化が生まれた時代です、
藤原道長に代表される摂関政治は天皇の身内となることが重要であり、天皇に入内した娘に紫式部のような才女を送り込み教育係としたのです。
そして平安時代の終わりごろは院政が行なわれ武士が活躍する時代となり、この時代は古代ではなく中世だとも言われています。
また貴族にも大きな変化が現れます、桓武天皇の子孫の桓武平氏から平清盛なども出て来ますし
平城天皇の子孫は「伊勢物語」の主人公にもなる在原(ありわら)氏となり、
嵯峨天皇の子供で源を名乗った嵯峨源氏は貴族社会の大きな勢力となっていきます。
 
一方、貴族達ですが、貴族たちはは呪術色の強い密教の浸透によって密教儀式が生活の中心となって行きました、
朝廷や地方も、国家の安全などを密教儀式により祈り、
日々の生活も穢れの清めなど多種多様な宗教儀式が年中行事化としてゆきます。
政治は国司など地方の官職を任命する除目によって任命され「受領」となり各赴任先で国内支配の実験を握って行きます。
 
十世紀前半に承平・天慶の乱が関東と瀬戸内海でほぼ同時に起きます、
この戦いにより武士が生まれてきました。
その武士は、都で貴族や天皇家との密接な関係を作り国家権力に近づく者や地方に根づき領主となり、大きな勢力になります。
このように、武士はもともとは検非違使など貴族や役人「軍事貴族」だったという考え方が現在では主流です。
 
ではその武士の実態について少し詳しく、
「後三年合戦」の絵巻などで武士の戦いの様子が知られ武士が戦闘に特化した集団として確認できます。
九世紀から十世紀に東国は征服され殖民とされた蝦夷の反乱などにより乱れていて、東国の国司に軍事貴族が任命されました。
そんな中、東国の国司に任命された平高望は任期が終わった後も都に戻らず子孫と共に東国に勢力を広めていき、
孫に当たる平将門は「承平・天慶の乱」の主役の1人で、最初は都に出て摂関に仕えていました。
しかし、親の急死により東国へ戻り茨城県西部を拠点とし東国を支配し自らを「新皇」と称し「将門の乱」を起こしまが、
後に平貞盛や藤原秀郷らによって将門は倒されました、
そして藤原秀郷と平貞盛は貴族の位を獲て都を中心に広域勢力を持って行くことに成ります。
しかし「将門の乱」とほぼ同時に起きた瀬戸内での「藤原純友の乱」の鎮圧に軍事貴族を起用しましたが、
その軍事貴族達も在地武士や都の武士となり、「武士の棟梁」として頭角を現わしたのが平氏と源氏なのです。
 
千五十一年、東北の陸奥国にて「前九年合戦」が起こりました。
これは源頼義・義家親子による東北地方への勢力拡大に伴う合戦でもあり、
そのころの東北は豊かな物資の産地であったため、多数の豪族や武士が利権を求めて起きた戦乱でもありました。
前九年合戦の二十年後、千八十三年に「後三年合戦」も起こります
前九年合戦によって利益を得たのは、頼義に援軍を送った清原氏でしたが当主である真衡と、その弟の清衡と家衡との地位を巡って対立します、
そして源義家とともに戦った清衡が家衡を倒し東北の支配権を手にし百年にわたって栄華を誇る奥州藤原氏となりました。
奥州藤原氏は岩手県、平泉を拠点にし中尊寺など優れた都市文化を築きました。
このように東北武士も貴族や国司を源流とする者から成ったのです。
 
 
ここで高校の教科書には奈良時代・平安時代の農民の生活として次のように書かれていますので記しておきます。
『奈良時代、農民には兵役のほか、雑徭などの労役や運脚などの負担があったため、生活に余裕はなかった。
さらに、天候不順や虫害に影響されて飢饉も起こりやすく、国司・郡司らによる勧農政策があっても不安定な生活が続いた。
農民には富有になるものと貧困化するものとがあらわれた。
困窮した農民の中には、口分田を捨てて戸籍に登録された地を離れて他国に浮浪したり、
都の造営工事現場から逃亡して、地方豪族などのもとに身を寄せるものもふえた。
平安時代である八世紀後半から九世紀になると、
農民間に貧富の差が拡大したが、有力農民も貧窮農民もさまざまな手段で負担を逃れようとした。
そして戸籍には兵役労役租税を負担する男子の登録を少なくする偽りの戸籍がふえ、律令の制度は実態と合わなくなり、
手続きの煩雑さもあって版田収授は実施が困難になっていった。』と平民の生活について書かれています。

























 




 

 
 
 
昨日記事にしました小沢氏の講演内容とニュース記事について少し
今回のブログの命題にも繋がると思い載せたのでその事に触れたいと思います。

 まず、報道記事との小沢氏の講演内容と対比です
内容に触れているのは読売ですが小沢氏の趣旨とは全く一致していません
何か意識してそのような記事にしたと思えるほど小沢氏の趣旨を無視しています。
アメリカやイギリスの文化や国民性を小沢氏は比較文化論として引用して
日本人の姿を露わにしようとの内容のはずです、
その中で不適切とも言える「単細胞でダメなんですが」の言葉が使われた
その使い方に対しウォールストリートジャーナルが不注意の指摘をしている訳です。
それに対しテレビアサヒは海の向こうで話題になっているとばかりに野次馬報道をしています。
 このような日本の文化と言いますか姿に小沢氏は危機感を持って「一生懸命、真剣に真面目に生きる、ちゅうことが教育、子育ての基本」と
日本の未来に対して「人づくり」が必要だと述べています、
ですが、その事自体も翌日には、このような報道によって野次馬記事に成ってしまうのが今の日本なのです。

それが何なのか、何が根本にあるのかを顕わに出来ればと歴史を機軸に見地を変え見ていこうと、
先ず最初の作業として現在の日本の教育から与えられる歴史観を見ている所なのです。
 
 (ちなみに私は小沢氏支持では有りませんし講演内容も浅く今ひとつと感じています。)


 
 
では、角度を変えて日本史風景を見る(その一) 日本の古代、飛鳥時代からです。
 
 
古墳時代の終わり、ヤマト王権の豪族達の中でも蘇我氏と物部氏が台頭し
 
勢力争いによって曽我氏が物部氏を滅ぼし政治の中央集中化がおきました
また蘇我氏による飛鳥寺の建立も始まり仏教政治へとなって行きました
同じ頃、中国では三百年の戦乱記を経て文帝が国を統一し隋となりました。
(その頃のヨーロッパはローマ帝国が東西に分裂してから二百年が経っており、
イタリア半島ギリシャバルカン地方は東ローマ帝国として、
西ローマ帝国滅亡後フランスドイツ地方はフランク王へスペインは西ゴート王国となって栄えていました。)
 
五百九十二年に推古天皇が即位し、飛鳥時代が始まります。
翌年には聖徳太子厩戸皇子・うまやどのおうじ)が蘇我馬子と共に国政を司り
聖徳太子のよる飛鳥斑鳩宮の造営と法隆寺の建立や
憲法十七条の制定による内政の改革を軸に仏教を中心として国政の改革が行われ、
大化の改新を含む律令政治の基盤が作られたのです。
外交では大国である中国の文明を求め
文化としての儒教と、政治・科学としての仏教を取り入れようと遣隋使を派遣しました
その時の書あった『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々』
はよく知られるところです。
 
隋は三度の高句麗遠征の失敗と、
黄河と長江を結んだ総延長二千四百キロメートルの大運河の建設などで疲弊し
六百十八年クーデターによって倒されます。
六百二十二年聖徳太子死去、六百二十六年蘇我馬子死去
そして六百二十八年には推古天皇が死去します、同年中国では唐が統一国家と成りました。
その後、蘇我蝦夷、蘇我入鹿などの勢力争いや(飛鳥斑鳩宮が焼失)
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)のクーデター「乙巳の変」(いっしのへん)を経て
六百四十六年、中大兄皇子による「大化の改新」の詔(みことのり)が行われました。
 
この間、六百三十年に高句麗大使からの情報により遣唐使を派遣しました、
それは朝鮮半島の百済・新羅の紛争、唐と新羅の結びつきから
日本の朝鮮半島との利害関係を考慮してのことでした。
(この頃イスラム教はアラビア半島を制覇し六百三十二年ムハンマドが没し
この後イスラム帝国が起こりヨーロッパを揺るがし始めます。)
唐は、六百四十五年以降再三、高句麗を攻撃します。
六百五十二年大化の改新以降の念願だった難波宮が完成します。
さらに六百六十年に唐は、新羅と結んで百済を攻撃し百済は滅亡してしまいました。
百済と深い関係を持っていた日本は、祖国の復興をめざす百済の勢力と組み、
六百六十三年、朝鮮半島南部の白村江で唐・新羅軍と対決しますが、唐・新羅軍の圧倒的な強さの前に大敗します。
白村江の戦いで大敗した後唐の来襲を恐れ危機感を持ち、
大宰府の「水城(みずき)」岡山県総社市に残る山城、「鬼ノ城(きのじょう)」など防衛体制を整え、
六百六十七年には都を近江に大津京として移します。
翌年中大兄皇子は天智天皇として即位、六百七十年には全国的な戸籍の始まりと言われる「庚午年籍」が作られました。
天智天皇の死後、六百七十二年に「壬申の乱」が起こります。
これは天智天皇の子・大友皇子と天智天皇の弟・大海人皇子との対立から内乱が起き大友皇子がいた近江の朝廷は滅亡しました。
大海人皇子は天武天皇として即位して権力は天武天皇独りに集まり、蘇我氏などの旧来の中央豪族の勢力は後退していきます。
天武天皇は、都を飛鳥に移し、「飛鳥浄御原宮」の造営を始めました
(千九百九十八年、飛鳥池遺跡で「天皇」の文字が記されて木簡が出土しています。)
天武天皇の死後、皇后が持統天皇として即し、既に始まっていた碁盤目状の都の建設を進めて六百九十四年に藤原京遷都を行います。
古代は、「律令」という法律に基づく時代であり、律令の律により刑法・犯罪に対する刑罰を定め令はそれ以外の法律であり、
政府や税の仕組みを定め「行政法」や今の民法・商法に当たるものも含んでいます。
日本は中国に倣って律令を持って運営し律令国家作りにまいしんします。
このころの「律」は中国から持ち帰った「律」を使っていたようです。
天武天皇から持統天皇の時代に行われたといわれる政策とは
八色の姓と言い豪族の政治的地位を新たに八段階にしました。
藤原京の造営や戸籍に基づく六年ごとの班田収受を始めました。
「日本」という国号も国外向けに使われ始め、古事記・日本書紀の編纂も始まりました。
 
七百十年、藤原京から平城京に遷都して飛鳥時代から奈良時代へ移ります。
平城京は中国、長安に習って5キロメートル四方城壁で囲まれた碁盤状の都で東側にはおよそ二キロメートル四方の外京(げきょう)が張り出していました。
平城京の人口は、平民を含め約五万から十万人くらいだったと見られています。
そのうち貴族上級官人は百二十人前後で、中・下級官人や貴族の家で奉公する人たちやその家族、僧侶や上級兵士です。
貴族とはヤマト王権と縁の深い飛鳥地方の豪族であり、
推古天皇の時代に作られた冠位十二階を唐にならった位階制度として整備して出身などによって位を授けられた者達です。
位階は、「正一位」から「少初位下」まで三十段階あり貴族とされるのは五位以上で多様な面で優遇され、
「給与」は六位と五位とでは年収に倍以上の開きがあったようです。
貴族の食事や生活は実に多彩で、現在正倉院に保管されていた聖武天皇が愛用した品々によって伝えられていますし、
平城京跡から発掘された「荷札木簡」によって地方から運ばれて来た食料や物産によって知ることが出来ます。
 
その律令国家は、全国を「五畿七道」に分けており
「五畿」は畿内をさし、都周辺の五つの国を言い、それ以外の国々は、「道」という行政単位で7つに分けられ、それぞれ「国府」が置かれていました。
九州は大陸との外交や防衛の拠点として重要な地域だったため「大宰府」が置かれていました。
大宰府は、九州全体を統括すると共に、中国や朝鮮半島との交流も担い「防人」(さきもり)によって防衛拠点ともなりました。
七百二十四年、陸奥国に律令国家の北の最前線として「多賀城」が国府として作られ、東北地方支配の拠点とされました。
 
地方は行政単位として「国・郡・里」という区分に整理され国司と郡司によって治められ
国司は任期が終わると都に帰りましたが、郡司に任命されて郡を治めたのはその土地の伝統的な豪族でした。
最近の研究では、「国」よりも「郡」の方が、地方支配においてより重要な役割を担っていたのではないかとされています。
中央は地方豪族のその土地を掌握してきた実績を律令体制に組み込むことで地方を支配しました。
一方の地方豪族も、国家の後ろ盾を得ることで支配をより確かなものにしたようです。
 
では地方の支配ですが、まず6年に一度の割合で戸籍が作られ家族全員の名前や年齢、続き柄などが詳しく記録されました。
「庚午年籍」に基づいて6歳以上の男女に口分田が班給(割り当て)され、収穫のおよそ三%を税として収めました。
その他「庸」「調」の税の他に、年間六十日以下の労役や、成人男子3~4人に1人程度兵士を出す「兵役」などがあり、
税以外でも、重い負担となったのが「公出挙」(くすいこ)でした。
これは元々は田植えの前に稲を貸し出す農民を助けるための制度でしたが、後には強制的に貸しつけて利息を取るようになりました。
しかし「出雲国風土記(ふどき)」には、人々が温泉に入って楽しんでいたという記述もあり、
「常陸国風土記」に筑波山に花見や紅葉狩りに行ったとも書かれています。
 
また奈良時代は国分寺と地方寺院の建設を中心にお仏教が地方へも深く広がってゆきました。
七百四十一年、聖武天皇は詔を下し、国ごとに「国分寺」と「国分尼寺」を建立することを命じました。どちらも、国府のそばに建てられました。
聖武天皇によって仏教による国家安定を求め七百四十三年、大仏を作ることを命じます。
七百五十二年の開眼供養の儀式は、一万人の僧侶が参加し
大仏の造立は、仏教によって国を守るという聖武天皇の願いと、律令国家・日本の威信を内外に示す一大イベントであったのです。
 
次に平安時代へと。
 
 
 






































 




 
先日、「アメリカ人は単細胞」と小沢氏の発言、と言う報道があり、
また、言葉の一つを捉えての報道かと、ちょっとどのような小沢氏の講演内容だったのかと思っていたら、
その講演内容をテキスト化して下さっているブログに出くわしました。
小沢一郎氏についてとか、講演内容や、報道のあり方など、色々と考えさせられるものがありますが
私の思った事などは書かずそのまま載せさせてもらいます。
講演の記事の後に一連の報道記事も転写しておきます。


 
小沢政治塾での小沢氏の講演内容  (ブログ「日々坦々」から無断転写です) 
 
みなさん、おはようございます

三泊四日の夏の講座。
いよいよ最後になったわけであるますけれども、この短い時間ではあったと思いますけれども、
いろんな分野で活動しているみなさんがこうして一堂に会して勉強し、あるいは友情を広める深める、
そういう意味で皆さんの人生におきまして、いい思い出といい機会になったと思いますし、
そうであればこの政治塾の意義もさらに大きくなるだろうと思います。
もう九期生の皆さんは、集中講義は今日でもって終わりになり卒業するということになるわけでございますが、
十期生の皆さんはまた来年も、次の仲間を迎えての講義が勉強が続きますので、せっかく皆さん自分の休みを費やして
自分で参加していただいているこの政治塾ですので、是非、有意義に使っていただきたいと、そのように思っております。
えぇ、昨日、懇親の席もあったようですが、僕も参加しようと思ってたんですけれども、なんかもう、
今日、皆さん、もうお分かりのようにマスコミ諸君がもう、ホントにこの勉強に興味あってきていただいたんならいいんですけども、
大変、皆さんに、せっかくのところ迷惑をかけちゃいかんと思いまして、昨日は遠慮させていただきました。
今日も大勢マスコミ諸君がきてますけれども、皆さんもご承知のとおり、この政治塾は下世話な政局話をする場ではありませんで、
お互いに知識を深め、お互いに意見を交換しあい、自らを研鑽、研く場でございますので、ご承知の事と思いますけれども、
そういう主旨で今日も話をさせていただきたいと思っております。

今朝の報道で円が八十三円台に突入したという話がありました。
当面、円高傾向は上下ありながら続くんだろうと思っておりますけれども、今日は為替の話をしようとしているのではありませんで、
今日、日本社会がもっている最大の問題点はなんだろうと、いうことを皆さんと共に考えてみたいと、そう思っているわけであります。
資料は後から見ていただければいいんですけれども、日本は戦後、戦争の荒廃の中から奇跡の復興と呼ばれる経済の復興を成し遂げ、
今、バブルの崩壊から景気が悪い悪いということでいわれてますけれども、
まあ、まだ、この国においては、ほかの国のように食べれない人が出てきているわけでもありませんし、
街中に、失業者は増えてはおりますし潜在的失業者の数をかぞえるとかなり多いんですけれども、
それでも欧米にくれべても失業率もまだ半分くらいのところですから、そういう意味で日本の社会はまだ平穏を保っているわけですけれども、
今後のことを考えてみますと、今申し上げました為替も当分は円高にふれていくでしょうから・・・。
 
そうしますと外需、ようするにアメリカと中国がメインですが、ま、最近は東南アジアも増えてますけども、
外需に頼りっきりの日本経済というのは、非常に大きな打撃を受けることになりますし、また、為替だけではなくしてアメリカ経済の行方、
そして特に中国の経済の行方、中国の経済のバブルの崩壊がもう始まっているという人もいますけれども、
経済的な崩壊は中国の場合には政治的な動乱に繋がる恐れが十分にあると。
 
そういうような政治・経済いろんな意味で非常に不透明な不安定な状況に、どんどんなりつつあるということは間違いのない現実だと思います。
 
私から言わせれば、本来の日本人の精神と知恵と力をもってさえすれば、このくらいの困難を克服するのは、私は容易に可能なことだと思っていますけども、
今日の日本社会を見ますと、非常にあらゆる分野で、最近、「劣化」という言葉が使われておりますけれども、勿論、私ども政界においても、
官界においても財界においても、一般社会においても、
そういう精神の荒廃といいますか、日本人の劣化というのは急速に進んでいるように思えて、その点が心配でなりません。

最近、あの報道ダネになっておりました、高齢者のね、あの全然住所録のとおり行ってもいなかったと、
どこに行ったかわかんないと、子供でさえ、じいちゃん、ばあちゃんどこにいるんだかわからない、
というようなのは現実だとあわてて今、各市町村であっちゃこっちゃ調べているようですけれども、
家族でさえわからなくなっている、という状況。
 
それから、また前からも言ってますけれども、親殺し、子殺し、もう毎日毎日報道されております。
特に、こともが親を殺すっちゅうのは、儒教的道徳でいいますと、最も悪いちゅうことで、いわゆる親族殺人?という、重い刑になりますけれども、
なんといいますか、その人間の情とかなんかの側面からいいますと、親が、特に女性の場合は自分の腹を痛めて産むわけですすけれども、
その子供を平然と殺す、あるいは虐待する、あるいは捨ててしまう、というようなことが日常茶飯事のように毎日毎日おきていて、
だんだん、聞いてるほうも何も感じなくなってきて、ああ、またか、というような状況になりつつあるのが、
今日の日本社会なのではないだろうかなというふうに思っておりまして、その意味では非常に日本人自身が、私は、自立した日本人を、
そして自立した日本人の集合体である自立した日本国をということをいっておりますけれども、それは、自立してるかしてないかというのは、
心の持ち方の問題でありますから、ある意味で、今言ったことと同義語であります。
 
まあ、そういう状況が急速に日本社会にはびこりつつある、このことを我々は真剣に考えなくてはならないだろう、とそう思っております。
 
私は九年以上前の皆さん覚えているかどうかわかりませんが、新進党のときもまた、自由党のときにもこのことを公約の第一に挙げたんです。
 
人づくり。それが一番大事だと。みんな反対した仲間は。そんなの公約の一番目に挙げたって選挙の足しにならんと。
 
マスコミやいろんな人が聞けば教育が一番大事だと全員こたえますよね、たいがいの人は。
教育は大事だ大事だと、
タテマエでは言ってますけど、それを強調して選挙でそれで訴えても票にならないということはどういうことだと。
口先では、教育大事だね大事だねと言うけれども、本当に真剣にそのことを考えている人は少ないということでございます。
 
ですから票にならない。
 
まあ、しかし私はそのことは十分、選挙を長年やってきた身としてわかってはいるけれども、
我々は新しい政権(制度?)で新しい日本をつくろうとしてるんだから、選挙にはあまり効果がなくても、
人づくりということは第一の公約に掲げようと。
この点だけは私は強行に言い張って公約の一番目に掲げてきた経過がありますが、
それがこんにち本当にもう一度、国会議員は勿論ですけれども、
日本人全員がやはり自分の胸に問いかけてみなきゃいけないんじゃないか、と
いうふうに私は思っております。
 
教育と言わずに「人づくり」といいましたのは、教育というと学校教育というイメージだけが先行しがちですので、教育には一番には家庭教育、
それから学校教育、社会教育とあらゆる分野での人づくり子育てがあるわけですので、そういう意味で人づくりという言葉を
使ったわけであります。
 
こういうテーマでですね、実は五・六年前に瀬戸内寂静さんとテレビで対談したことがありました。
私はこの精神の崩壊を立て直すにはワンジェネレーション、三十年はかかるだろうというふうに申し上げたところ、
瀬戸内さんは「いや、三十年どころじゃとても直らない、百年はかかる」と、そういう話をなさいましたけれども、
それだけ私は非常に本質的な問題であり、深刻な現状だというふうに思っております。
 
まあ、昔話を自分の活動でもって感じた話をちょっと、思い出話になりますけど、しますけどね。

ぼくが最初に選挙に出た頃、ですから四十年以上前ですけども、そのころね、まあ田舎のせいでもありますが、
宣伝カーで「小沢一郎でございます」と言って、まあ他の人も同じですけれども、通っていきますとね、
小学生や中学生のみんながね、パッと道端へ、横へによけてね、帽子とってね、おじぎしたもんですよ。
今ね、選挙区にほとんど帰ってないからわかんないですけれども、それは強制されたわけじゃあないんですね、
学校の先生から、そうしろ、と言われたわけじゃないんですよね。
それは大人もやはり田舎で農作業しててね、あたまにてぬぐいまいてたり傘かぶっている人もきちっと会釈したもんです。
 
そういうような、今から考えると信じられないような状況、時代でした。
今なんかね、たまにどっかの遊説カーに乗って「よろしく」っていってこっちはニコニコしてるんだけど、
あの「バーカ」(笑)なんていってね、いうやつが非常に増えてますけど、当時はそうでしたね。
ですから、それは一つの象徴的な自分の体験の例として話すんですけれども・・。
 
そういう具合にあらゆる面であらゆる分野で、良くも悪くも規律というかモラルというか、そういうものがまだまだ日本人のそして
日本社会の美徳として残っておった時代だと思っております。
 
それが良い悪いかは別としまして、そういうたぐいのことは、かけらもみられなくなってたきた昨今じゃないかなと考えております。
 
日本は、特に明治の頃は、よく皆さんもお聞きと思いますが、文明というのと文化という言葉を分けて使ってたんですよね。
 
物質文明というでしょ、物質文化とはいわないよね、物質文明、精神文化でしょ。
それから、西洋文明、東洋文化、そういうように半分、あれなんですけどね、
自分たちが遅れていたコンプレックスの裏返しではあるんですけれども、そう言えるくらいの精神的な豊かさと、大きなそして強い心をもっておった。
だからこそ、侍の支配する封建制からいっきに、西欧でいうと、
ヨーロッパで言えば近代革命と市民革命を一緒に成し遂げたような明治維新が出来上がった、まあいうことだろうと私は思っています。
 
そういうように非常に日本人のそれなりの美徳といいますか、高いモラル、文化をもっておったと。
 
ぼくは、あの前にちょっとこの九期十期の皆さんの前でいったかわからないけれども、織田信長を私は歴史上の人物として尊敬している人ですけれども、
あの頃にキリスト教が戦国の終わり頃ですが、日本に入ってきましたね、イエスズ会だのローマカソリックですけどね。
それらの伝道し神父の本国への報告にも、この東洋の一番端っこのこの島国で、これだけの文化と、これだけ礼儀正しい民族、
そして非常に綺麗な清潔な国が存在しているのは驚きであると。
当時のヨーロッパよりはるかに素晴らしいと、いう主旨のことを本国に送ってるんですね。
 
これはもう、本当に彼らはびっくりしたんだろうと思います。
 
そして特に経済的にもね、信長の時代は中世のくびきを断ち切りましたから、ヨーロッパ以上に銀の流通量は世界一だったといわれておりますが、
商業・経済が大発展した時代ですけれども、まあ、それは別として、
そういうことがその時代に、既に、外国人から見ても言われているような、
そういう日本人の社会を形成していたということは非常に驚くべきことであると同時に、我らも誇らしいとこだろうと思っております。
 
ま、そんなことで、かつては、日本人は礼儀正しいし、最も秩序ある社会だし、平和な社会だしと言って、えばってて、
アメリカなんか金持ちで大きな国だけど、その世の中むちゃくちゃ乱れてると、いうたぐいの考え方を持っていた人が大部分だったと思いますけどね。
 
これも、5・6年前の話でアメリカに一度行った時にね、ものすごく驚いたことがあるんですよ。
というのは私の車があの、スクールバスのね、後ろを走ってたんですけども、そのバスがあるところで止まったですね。
子供達が当然降りてきますよね、そうすると勿論後ろの車も追い越したりなんだりしませんし、止まってますけども、
対向車もね、ピタッと止まってるんですね。これは別に警察がいて止めてるわけじゃないですよ。
スクールバスが動きだすまでピタッと、誰に言われたんじゃなくて、
キチンと止まって子供達が乗り降りするのを、終わるのを待って走り出す。
 
まあ、そういう光景に出くわしましてね、本当にアメリカ社会ちゅうのは、俗にメチャメチャで乱れて、いい加減なとこだというような見方を、
お金持ちだけどそうだと、いう見方をしてる人が多いんですけれども、やはりそういったモラルはきちんと守ろうと、
守らなくてはいけないんだ、という意識を彼ら自身がきちんと持っている、ということに大変、私は驚き、感銘をいたしました。
 
これはねえ、あの、政治的な点でもそうですよね、僕はアメリカ民主主義ちゅうのは、なんだかんだいうけれども健全だなあと思ったのは
、最近ではね、あのブッシュとの選挙のときにフロリダでしたかな、最後の時に、あの計算間違えて、
もう一回やり直しだ、なんだなんていって、日本では計算間違えるというのは絶対ないですよね。
 
まあ、ずっと田舎のほうではね、相手の票を食っちゃったという例はあるけれども、計算を、事務的な計算を間違えるちゅうことは、まず、まず少ない。
ところが簡単なそういう計算を間違えたっちゅうことはね、世界中におおっぴらに、別に宣伝したわけじゃないけど、オープンなかたちで議論、
いいとか悪いとか、有効だとか無効だとかちゅうことを、いわば恥っさらしみたいなことであってもオープンにやる、
というそのアメリカの民主主義。
 
ぼくはまた、今度のね、オバマ大統領の、絶対黒人大統領なんかはありえない、と思ってたアメリカ社会、黒人の大統領が誕生した。
しかも、アメリカではケネディに始まってね、大統領暗殺の歴史も沢山あります。
リンカーンもそうですし、
だから、黒人が候補者に出たら、必ず暗殺されるんじゃないか、という噂さえ、事前にはずっとあったんですね。
 
だけどこの危機にあたって、変化を強調したオバマ大統領を彼らは選んだ。
現実、今、オバマ政権が言ったとおりやってっかどうかは別といたしまして、黒人の大統領をあえて、歴史上はじめて彼らは選択した。
 
私は、そういう意味でね、決してあまりアメリカ人を利口だとは思ってませんけれども、そういった意味での民主主義と、
そして危機にあたっての国民の選択という自由な、自分の意思による選択というものが、きちんと実行されている、
ということについて非常に高く評価をいたしておるところでございます。

まあ、そういうことで、本当に私は日本がこれから益々政治・経済共に困難な時にあたって、日本人自身がきちんとした自立した人間、
きちんとした自分で判断し自分で行動し責任を持つ。そしてきちんとしたモラルを身に着ける、
ということが、将来に困難が予想されればされるほど、大事なことではないかなというふうに思っております。
 
そういう中でね、この前、安部政権でしたか、ちょっと資料ありますけれども、教育基本法の改正というのが自民党政権下で出されました。

まあ、結局、妥協の産物でヘンチクリンな文言を入れるにとどまったんですけれども、そこに、あの三つのね、
旧教育基本法と、自民党が修正したもの、
いわゆる、態度を養うとわが国と郷土を愛する、態度を養うみたいなことを入れただけにとどまったんですけれども、
しかし、このね、俗に愛国心、愛国心と言いますけども、これは、お上から、これを上から親から押し付けられて、
あるいは観念的に教えられ強制され強要されて、生まれるもんじゃないですよね。
 
心の問題ですから。
 
それぞれの各人の心に宿るものですから。
 
家族愛、郷土愛、祖国愛。これはそれぞれの各人の心に宿るものでありますから、教育基本法に書いてあるとか書いて無いとか、
学校の先生が教えるとか教えないとかっていう、本来、そういう性格のものではありません。
自然とそれぞれの国民の一人ひとりの心に宿るものだと私は思っております。
 
ですからね、これも例を挙げますと、戦前ね、明治の時代ではなくして、昭和の初めの戦前の時代を例に取りますと、
たとえば、皇軍、日本軍、「こうぐん」ちゅうのはのはみんなわかんなかな?
 
皇軍は、世界にその軍規の厳正さを誇った、そのくらい規律正しくて統制がとれた軍隊は、わが大日本帝国の陸海軍のみと、
いうくらいに吹聴しておったんですけれども、この太平洋戦争の最中にね、これ本に書いてありますから興味ある人は見ていただきたいんですけれども、
捕虜になった人達ね、その実態を書いた本があるんです。
 
特に陸軍がそういう傾向が強かったんですけどもね。
 
捕虜になったとたんに、まあ当時は捕虜になっちゃいけない、あの、生きて虜囚の辱めを受けてはならん、死して悠久の大義に生きん。
 
※「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ」(『戦陣訓』「本訓 其の二」, 「第八 名を惜しむ」)
 
と、こういう軍国の教えがあったわけだけれども、その時に捕虜になった人もいっぱいいるわけだ。
そうしますとね、アメリカ人がものすごい驚いたちゅうのが、
捕虜になったとたんに、全部軍事機密でもなんでも将校も兵隊もペラペラペラペラ聞かないことまで全部しゃべる。
それがホントの事実だっちゅうことが本にちゃんと全部書いてある。
 
それから、軍隊組織であったその捕虜も、軍隊のその制約がとれて捕虜になったとたんに、上下の区別も将校もへちまもない。
まったく無秩序の烏合の衆に化してしまった。
まあ、そういう記述がきちーんと本に載っております。
それが実態だったわけ。
なぜだ。なぜそうなんだ。
 
その一方でね、みんな、あの、映画覚えてるかな、「戦場に架ける橋」というのを。覚えている人いる?この中で。
もう古いからいないか?いる?おお、タイとビルマのね、戦争中に国境に鉄道を通すということで、
日本軍が昼夜建工で、工期4年か5年かかるのを1年でちょっとで作っちゃった、話なんだけれども、
その映画、早川雪洲とね、誰だっけもう一人英国の俳優でもってあったんですがね、
そこにアメリカ兵やオーストラリアの兵やそして特にあそこイギリスの植民地でしたから、
イギリス兵の捕虜を使役に使ったわけですね。
 
ある日、イギリスの捕虜が送られてくる、ということになって、その現地に。
まあ、たぶんねヨロヨロして、ふて腐れてモタモタ歩いてくるんだろうと、誰もが想像しておった。
 
ところが、イギリスのその捕虜は、将校を先頭にして隊列を組んで、いわゆる映画では「クワイ河マーチ」と言われる。
口笛で行進曲を吹きながら、みんな隊を組んできちっと収容所?に入ってきた。
アメリカ兵もオーストラリア兵もおったまげて、日本はもっとおったまげたわけですけれども、
そういう捕虜になってもキチンと組織のあれが守られている。それから、鉄道をつくる作業にその兵を使うわけだけれども、
ジュネーブ条約で将校は使役に使ってはいかんちゅうことになってんですね。
 
それでその将校の、捕虜部隊の一番偉い人がたまたまキャップ、長になったんでしょうけれども、日本軍はその人も強制労働せよと命じたんだけれども、
これはジュネーブ条約で将校は、そういうことはさせられない、する必要ない、させてはいけない、いうことになっている。
断固拒否したんですね。その将校が。
独房に、まあ南洋ですからね、熱いトタンぶきのうだる様なグダグダの独房に一週間くらい閉じ込められて。
しかし、それでも絶対負けない。
それでフラフラになって出てきた。
その将校を、賞賛しようとして言ってんじゃないですよ。
その出てきた、絶対に将校はその作業につかなくていいんだ、
という筋道をきちっと守って、独房からフラフラになって出てきた将校を、その他の兵士が拍手で迎えた。
よーやった、と。
 
非常にわたしはびっくりしたと同時に感動した場面でしたね。
たぶん、今、言ったように日本の兵隊が捕虜になったら、
「何言ってんだ、お前だけサボっててふざけんな」というような類(たぐい)の話になってたんだろうと、
その本を読むと想像できますが。
 
その「戦場に架ける橋」「クワイ河マーチ」というのは、
そういう、まあ日本を軽蔑した映画だというような、つまらん論評は別にして、私はそこに非常に感動した。
なぜ、この違いが出てくるんだ、と。
 
それは、いわゆる帝国陸海軍、この規律・空気、これは結局、天皇陛下の名を借りてですけれども、
上から与えられ、押さえつけられた結果で、それを守ってきた。
 
だが、イギリスのほうはそういじゃない。
自分達でつくった国であり、自分達の意志でもってつくった軍隊であり、また、組織、階級であった。
自分たち自身のものなんですね。
 
だから、祖国愛も、その祖国のために戦う軍隊も組織も、みんな自分たち作りあげてやっているもんなんだから、それは、守らなくてはいけない。
たとえ捕虜になっても、というのが、私は彼らの意識ではないかな、というふうに思いましてね。
非常にその映画に、その部分ですよ、その面において感動したことを今もって忘れてはおりません。
 
ですから、私はそういう意味で、家族愛で始まる郷土愛、祖国愛、愛国心というものは、そういう本当に自分たち自身の心の中にうまれるものでありますし、
また、社会、国は自分たち自身の社会であり国であると。
それが自立心であるという民主主義の基本の意識が徹底していると、
ということを私は学ばなくてはならないと、いうふうに思っております。

私はイギリス人は、まあ好きじゃないんですけども、
ええ、散々悪いことしといて、なんかあの紳士ヅラして済ましてますから、好きではないんですけれども
その知恵とね、やはり自分たちの自立心と、そういうものがね、やっぱりその知恵と自立心は、七つの海を支配しただけの民族だと思ってますね。
 
あのアメリカの連中と話した時もね、時々話すとね、なんで、そう君らはそう単純なんだと、本家のイギリス人に少し学んで来いって言うんですけれども、
僕はアメリカ人は好きですけれども、どうもね、単細胞なところがありまして、ダメなんですが、
我々は、いわゆる他山の石、やっぱり、いいところはキチンと学ぶという面が、自分自身の研鑽につとめ、
また、自分自身を作り上げていかなくてはならない。
 
その基本が私は人づくりと、広い意味での教育でありますから、今こそ、急がば回れ、本当に今後のことを考えた時に、
この人づくりということに、もう一度、思いをはせなければならないじゃないかと思っております。
 
日本のね、家庭教育の崩壊もそのとおりですけれども、戦後の学校教育のあり方も、その資料にもありますけれどね。
 
(教育勅語は入っているな)
 
地方自治体の教育行政に関するうんぬんという法律があるんですがね、そこには、市町村が全部責任を負うということが書いてあるんです。
ところが次の章の四十八条かな、二十三条に市町村の役割ということが書いてあって、次の章の48条には今度は文部省の権限等ということが書いてある。
ほとんど同じ内容で、文部省はこれについて、指導、監督、援助することができるということになってる。
これ、金もってますから、金は中央でもってるわけですから、結局、文部省の言うとおりの、まあ、言うとおりっちゅうか、
いちいちつまんないことまで全部口を出すという今の官僚組織のしくみ、そのものになっている。
ところがこれ歪んでるんですよね。何か起きた時は、責任は市町村だと法律に書いてあるじゃないかと、何か起きれば文部省は逃げる。
で、市町村も、そんなこと言われたって、文部省の言うとおりやってるだけじゃないかと、どちらも責任とらない、
とれないという、法律から始まって教育のしくみなんですね。
 
これは、あらゆる行政省庁でも皆そうですね。
 
法律だけじゃなくして各行政、省庁は、省令は勿論出しますし、
通達とか、なんとかかんとかっていって、いろんなかたちで自治体はじめ、
各社会、産業分野の隅々にまでコントロールをするようにしてあるのは、今日の仕組みなんですけれども、
特に、この教育の全くおかしな歪んだ仕組みは、ずっと戦後そのままになっている。
ということが私は一つの学校教育で言えば、一つの大問題ではないかというふうに思っております。
 
この教育につきましても、民主党は民主党なりの考え方を日本教育基本法の中にも入れておりますし、
私ども、さっき言った自由党の時代にも「人づくり法案」として提案しておりますけれども、
いずれにしてもこのことを、今日は特に9期生の皆さんは、これでおしまいですので、このことをお話したいと、
そう思って申し上げたところでございます。
 
まあ、私も子供もいう事を聞かないし、もう勝手にやってますが、
親の資格はないですけども、人様に迷惑かけなけりゃ、もう勝手にやれと、言っております。
どこに就職して何してんのか、よくわかりませんが、今のところどこからも苦情がきてませんので、自分自身で生きてるんだろうと、
そう思って私は、その点では安心をいたしております。
 
本当にこの政治塾で、ずっと前に申し上げたことはあるんですけれども、今日はこの機会にと思って、教育、人づくりのことについて申し上げました。
 
皆さんもだいたい人の親の、大部分そうであろうと思いますけれども、まあ、今、子育てがどうのとか、いろいろありますけれどもね、
まあ、当たり前に自然に自分自身がちゃんとしてればね、子供は育つ、子は親の背を見て育つ、とまあよく言いますけども、
一所懸命、真剣に真面目に生きる、ちゅうことが教育、子育ての根本ではないかと、いうふうに思っております。
 
もうちょっと政治制度、政治学的な、あるいは世界政治の話でもしようかなと思ったんですが、それはまた、質問の時にでも・・・
 
まあ、あの厳しいまマスコミの皆さんのいないとこで、皆さんの時間のある限り議論したいと思いますので、この場はこれで終わりたいと思います。
 
ありがとうございました。
 
 
 
読売新聞より
 
民主党の小沢一郎前幹事長は25日の「小沢一郎政治塾」の講演で、米国観を語り、
「米国人は好きだが、どうも単細胞なところがあってだめだ」と述べた。
 米国のオバマ大統領について「絶対、黒人大統領はあり得ないと思っていた社会で黒人大統領が誕生した。
黒人が出たら暗殺されるといううわささえ以前にはあったが、この危機にあたって変化を強調したオバマ氏を選んだ」と指摘。
「決して米国人は利口だと思っていないが、民主主義、危機にあたって国民の意思による選択がきちんと実行されていることを非常に高く評価している」と強調した。
 また、小沢氏は「政界でも官界でも財界でも、精神の荒廃、日本人の劣化が急速に進んでいる」と問題提起。
第2次世界大戦を舞台にした映画「戦場にかける橋」に登場する英国人捕虜の規律正しさを紹介し、
英国を「さんざん悪いことをして紳士面しているから好きではない」としながらも
「祖国のために戦う軍隊も、自分たちの意思で(作った)という意識がある。
自分たち自身の社会であり、国であるという民主主義の基本の意識が徹底している」と評価した。
 
 
 
ウォールストリートジャーナルより
 
失言癖のある有名な政治家がいなければ、政治風刺家はどうしたらいいだろう。
政治家の失言が問題にならない国はほとんどないが、日本は格別だ。
特に海外との関わりに絡んだ失言が多い。
派手な発言を繰り返していた国民新党の亀井静香代表が金融担当相を辞任して以来、しばらく政治家の失言は鳴りを潜めていた。
しかし日本では次の失言が出てくるのに、そう時間はかからない。
国内メディアは二十五日、民主党の重鎮、小沢一郎前幹事長が、米国人を、なんと「単細胞」と呼んだと報道した。
同氏については、資金管理団体による政治資金規正法違反事件への関与をめぐる捜査が続いている。
派手な発言を繰り返していた国民新党の亀井静香代表が金融担当相を辞任して以来、しばらく政治家の失言は鳴りを潜めていた。
しかし日本では次の失言が出てくるのに、そう時間はかからない。
国内メディアは二十五日、
民主党の重鎮、小沢一郎前幹事長(資金管理団体による政治資金規正法違反事件へ呼んだと報道したのとの関与をめぐる捜査が続いている。)が、
米国人を、なんと"単细胞"と評した。
小沢氏は都内での講演で「米国人は好きだが、米国人は単細胞なところがある」と発言。
さらに米国の民主主義について「私は(米国人は)利口とは思っていないが、国民の選択がきちんと実行されることについては非常に高く評価している」と持ち上げた。
小沢氏の都内での講演で、米国の民主主義について「私は(米国人は)利口とは思っていない、アメリカ人は好きだが単細胞なところがある」と発言をし、
「米国は国民自身による(政治)選択がきちんと実行されることについては非常に高く評価している」と持ち上げた。
小沢氏は26日、来月の民主党代表選に出馬すると表明した。
そうした人物が、オバマ米大統領が初の黒人系として大統領に選出されたことについては、
黒人大統領は「暗殺されるかもしれない」と思い、「ありえないと考えていた」と述べた。
小沢氏は二十六日、来月の民主党代表選に出馬すると表明した。
そうした人物が、オバマ米大統領が初の黒人系として大統領に選出されたことについては、
「黒人大統領は暗殺されるかもしれないとも思い、ありえないと考えていた。」と述べた。
東京の米国大使館は同氏の発言に対しコメントを控えた。東京の米国大使館は同氏の発言に対しコメントを控えた。
同氏の失言は初めてのことではない。昨年十一月にはキリスト教は「排他的で独善的」と呼ぶとともに欧米社会は「行き詰まっている」と発言している。
昨年十一月にはキリスト教は独善的で排他的だ呼ぶとともに欧米社会は行き詰まっているのと分析し発言している。
しかし小沢氏は、森喜朗元首相などに比べればまだましだ。しかし小沢氏は、森喜朗元首相などに比べればまだましだ。
森元首相は、二千年問題に絡めて日本とその重要な同盟国の違いに注目し、「日本では、水やカップラーメンを買ったが、アメリカはピストルと銃を買った。
停電が起きたら、ギャングや殺し屋がやってくる。(米国は)そういう社会だ」と述べた。
森元首相は、二千年問題に絡めて日本とその重要な同盟国の違いに注目し
「日本は水やカップラーメンを買ったが、アメリカはピストルと銃を買った」と、
「(米国は)停電が起きたら、ギャングや殺し屋がやってくる。そういう社会だ」と述べた。
 
 
 
 

   
テレビアサヒより
 
「アメリカ人は単細胞なところがある」民主党・小沢前幹事長の二十五日の講演での発言を、アメリカのメディアが一斉に伝えました。

 小沢前幹事長:「僕はアメリカ人は好きですけど、どうも単細胞なところがありましてダメなんですが」
 この発言を、AP通信やブルームバーグは「日本の大物政治家が『アメリカ人は単純』と発言」などの見出しで取り上げました。
また、ウォールストリート・ジャーナルも「日本の政治家には伝統的に失言をする人が多いようだ」と指摘しています。
 
 
 







































 






前回の記事から三ヶ月も経ってしまいました
イスラムとヨーロッパを題材に、日本と欧米の根底においての感性の違いや
西の大陸の感性から生まれる文化思想から東の大陸に生まれる文化思想へ
そして日本列島へ導ければと今年から書き始めたのですが、
主題の「日本人の感性」について思う所があって
日本の歴史を頼りに自分なりの解答を求める事に没頭していました。
本来「イスラムとヨーロッパ」はイタリア半島南部とシチリアを書く予定でした
しかし本来の命題「日本の感性」についてこの期に書き纏め、
私自身の思考の節目としたいと、思い付くままに書き留めておこうと思います。
(この主題の流れで「イタリア半島南部とシチリア」の記事は途中で挿入する形で書こうと思います)
文脈は飛躍が有ったり内容の重複も出て来るかと思いますが容赦をお願いします。
おそらく、思い付くままの大変長い記事となると思いますので
日を追いながら(その1)(その二)・・・と書いて行きたいと思います。
 



 「日本人の感性」として歴史から風景を見出す(序)
 

歴史の中にその時節ごとの表象風景として社会の姿を眺め感じると
歴史の場面場面に地域的差異と社会階層による文化と宗教観的思想とを育む元となる感性の違いが見えて来ます、
その違いを認識するにはこれまでの一般的に認知されている日本史全体を捉えるための立ち位置を大きく変え、
もう一度出来る限り過去へ遡り検証しながら
地域世界との文化比較を行い、現在へと戻って来なければなりません。
現代は幸運にも膨大な資料の蓄積があり誰でも容易く資料を使える状況にあります、
しかしそれだけに多大な作業を要する事にも成ります、
考古学、科学、農学、史学、現代物理学、人類学、遺伝子学、生物進化学、地質学と総動員されなければ
歴史文化をつぶさに紐解くことは不可能です、
ですから私のような日曜学習者は広く浅く触れながら感じ取って行くしかありません。
しかし私のような者でさえ現在日本の歴史文化認識に大きな歪みを感じえずには居られません
その歪みが、過去の風景を歴史の流れのその時々の時節に見えるべき風景を、消し去っていると言えると感じるのです。

その表象風景を感じ見なければ私たちは何者なのか、
何を見て何を感じ生きて今に繋がって自分が存在するのか見失ったままだと思うのです。
 

自文化理解とは?
やすいゆたか氏の講文に『倫理学の講義の時などに、「ギリシア人は主知主義で、
中国人は道義主義と言われていますが、では日本人は何主義ですか?」と質問しますと、
ほとんどの学生諸君は「わかりません」と応えます。
¦中略¦つまり異文化理解をする前に、自文化理解ができていないのです。
自文化理解も出来ていないのに異文化理解ができるはずはありません。
というより、日本文化や日本思想自体が現在の日本人にとっては異文化だということなのかもしれません』
とありました。
日本の伝統文化と言われるものがあります、
歌舞伎、水墨画、能、長唄、和歌、茶道、その他色々、それから文化思想とも言える、武士道、もののあわれ、わびさび、
これらに触れる時、私たちは知識によってどのようなものかは認識確認は出来ます
(個人差は大きくあると思いますが)おおむね大半の人は今の私たちの生活に繋がる感覚は殆ど無く
異文化に近いものを心情の片隅に覚えるのではないでしょうか
しかし、地域の伝統文化において
奄美の人々は島歌にこのような感覚を覚えるでしょうか、
津軽の人々は津軽三味線にそのような差異感覚を感じるでしょうか、勿論否だと思います。
日本伝統文化に日本人は異文化感覚を覚え、地域のその人々には地域伝統文化に差異感覚を覚え無いのなぜでしょう。

日本の歴史と言うものを時代ごとに地域や階層を見渡せる立ち位置に変えて振り返る事で、
なぜ差異感覚持ったり持たなかったりするかが見えて来るのではと私は思うのです。
前記にある「歌舞伎、水墨画、能、・・・・・・もののあわれ、わびさび」は
現在の日本の教育で歴史を学ぶと歴史とこの日本文化はリンクし認知できます
しかし、地域文化は歴史観から全くリンクするものは有りません
それで私は現在の高校教育で学べる歴史を古代から現代までを見てみましたが
地域文化へ繋がる歴史観も階層の歴史認識も僅かにしか無く、
辛うじて「民衆の目線に立つ歴史」と言う言葉を謳っているだけで
歴史教育は私の体験的に知っている五十年間の立ち位置は何も変わっていないとも言えるほどです。
学ぶ者にとっては「民衆の目線に立つ歴史」を感じる目に見える形で、
手にとって学ばなければ地域文化へリンクする歴史観も生まれて来ません。

私の祖先は縄文時代どのように生活し何を考え感じ生きていたのか
私の祖先は平安時代どのように生活し何を考え感じ生きていたのか
私の祖先は江戸時代どのように生活し何を考え感じ生きていたのか
その歴史の時節に私が生きていたらどのように生活し何を考え生きるのだろうか
一体どのように想像したら良いのでしょう、
悲しいかな時代に自分が祖先が暮らしている風景は感じることも想像すら出来ないのです。

現在と歴史とはどのように繋がって文化は流れ今の風景に至っているのでしょう
その時節ごとの歴史風景を教育やメディアから得た知識や経験では
全く想像すら出来ないのが現在の日本史観であり自文化理解ではないかと思います。
「ひとつの日本」と言う観念もその障害となっています、
北と南、西と東、山岳地人と平野人、アイヌ人や琉球人と本土人、海の暮らしと森の暮らし、平民と支配階級、
歴史も暮らしも違います、ある時代にはおそらく民族も違うでしょう、
何故その暮らしと多様な歴史と流れとをありのままに日本の歴史と文化だとしないのでしょうか?
それらが有ってこそ、主義、思想、文化と暮らしが在り今に繋がり、
『では日本人は何主義ですか?』との質問に答えられるのではないでしょうか。
しかし、その多様な文化と暮らしの歴史をつぶさに見ていくと、一つの日本人らしさ、
アイデンティティとも言える主義、思想、文化を育む独特の多様性の有る歴史的文化に通じる
一つの「日本人の感性」が根底に流れていること気付き突き当るのです。
 
私がこの「日本人の感性」に突き当たり認識したのは数ヶ月前の事ですが、
ついこの前、梅原猛氏がほぼ同じ考察に至っている事を知り色々な意味でショックを受けたのでした
梅原猛氏は「日本の叙情的主義」と捉えています、
私は「日本人の感性」ですが突き詰めれば同じ意味だと思います、
私はその感性のあり方を西欧のそれと比べ、天動説と地動説に例えられると考えていたのですが
氏は『プラトン以降の西洋形而上学を、人間の観念で作り上げた神やイデアの世界や主観的な理性を中心において
世界を解釈する人間中心主義の天動説であり、
観点を逆にし自然中心の地動説の哲学を創らなければならない、
日本文化論とは、西洋の人間中心・理性中心の「理論的文化」に対して、
東洋の自然中心・生命中心の文化、日本の「情を重んじる文化」を対置するもの』
と言っているのを他者の記事で知ったのです
この一文を氏は著書に書いているのか私は知りません(数年前、縄文思想で氏の考察と一致を体験してから
同じ方向性に立って居るようなので梅原氏の言葉に道筋をひかれるより自分で模索し思考を引き出したい
と言う思いによって氏の著書は読まぬよう避けているからです)
私など氏と並べ様にならない浅く狭い知識と鈍重な思考と僅かな経験しか有りませんが、
酷似した見地から天動説と地動説などを比較例として使っているだけで無く、自己か自己の外側か、
どこに基軸を置くか、それで何が生まれるか、私は氏と同じところを感じ見ているのだと解します。
これらの事柄について現時点の私的考察の節目として、
歴史を軸に時節ごとに日本の風景を感じる事で日本人の感性が具体的に説明出来るよう書いていければと思うのです。




 角度を変えて日本史風景を見る(その一)


此処より前半に現在の高校での歴史授業から見る旧石器から江戸時代までの史観を簡単に書いて見たいと思います。
多くの人はこんな事を書いても読むほども無いと思いますので斜め読みをして貰っても構いませんし、
復習のつもりで読んで貰うのも、または私の誤認を見つけて頂く意味で一応読んで頂くのも良いかと思います、
現在の高校教科に準じて書くつもりですのでひょっとすると
ご自身の受けた昔の授業との数十年間の変化も見出せるかも知れません。
その後、後半で立ち位置を少し変えて同じ旧石器から江戸時代までの歴史観を
私の私的観点からもう一度書いてみたいと思います。
私はどちらも史実だと思って書くつもりですし
前半と後半の比較から私たちの歴史観に疑問への道を感じて頂ければと思うのです。
その歴史観の差異への疑問を感じる所から「日本人の感性」への入り口と出来ればと思います。
 

では旧石器時代からヤマト王権時代までを簡単に書きたいと思います。
日本では一万三千年前頃からの縄文時代より前の時代を先土器時代、または無土器時代と呼んでおり
これを旧石器時代と言います
地球の平均気温は、約二万年前に最低になっています
これは最終氷期という時代(約七万~一万年前)の中でももっとも寒冷な時期でした。
氷期は、寒冷なだけでなく、海面も今より百メートルほど下がっていたと推測されます
旧石器時代の人々は、定住せず採取狩猟を行い頻繁に移動生活を繰り返す生活を送っていたのではないでしょうか、
旧石器時代から縄文時代への移行期には一時的に特定の場所で生活する
半定住生活を送るようになっていたと考えられます。
旧石器時代の日常生活の場としての拠点遺跡や石器製作場遺跡などが発掘されていますが、
定住住居跡と見られる出土例は殆んど無く、
旧石器時代は一定の生活領域内を移動しながら生活拠点に集まり採集狩猟生活をしていたと考えられます。
この旧石器時代に伊豆の神津島の黒曜石が海を渡り北は栃木県まで西は三重県まで流通していたことが判っています
1万3千年前頃から土器を生産し出した縄文時代に、急速な温暖化が始まりました、
6千年ほど前には今より高温となり縄文海進と呼ばれる日本列島の平野部が海に没する時期と成ります。
縄文時代の人々は、温暖で豊かな自然の中で数十人単位(三内丸山遺跡では二百人からの集落と思われる)の集落を
丘陵地に中心とし定住し、狩猟や採集を行なう一方、
有益な植物を選んで栽培することも始めていたと考えられています。
遺跡から栽培されたであろうクリやクルミ、さらにイネなども発見されています。
しかし、縄文時代の終わりに、大きな変化が起きて世界的に気候が寒冷化し、豊かだった資源が少なくなってしまいます。
やがて、朝鮮半島を中心に大陸から九州北部や島根へ西日本へと新しい食糧確保の方法として水田稲作が
伝わり縄文土器は弥生土器と変化し弥生時代と成ります。
二千五百年~二千六百年前のものと推定される佐賀県唐津市の菜畑遺跡は、
日本ではじめに水田稲作が行われたとされている水田跡です
水田稲作の技術は、西から東、さらに北へと広まっていきます。
弥生時代中期になると、鉄で出来た工具が普及し耕作能力が高まり大規模な集落が現われ、
佐賀県の吉野ヶ里遺跡のような数百人もの人が住んでいたとされる集落、
「外濠」「内濠」が二重に掘られた大集落も出来てきました。
北部九州から東北地方へと大小の環濠集落が現われ
列島内や中国との交流も盛んになり
権力文化と権力闘争も始まり、権力者の墓には豪華な副葬品を伴い出土する例もあります。
中国の王朝・後漢の歴史書に、建武中元二年、一世紀中ごろ、倭奴国から王の使いが来た、
それに対し後漢の皇帝が印を贈ったと書かれています。
江戸時代の後半、福岡市志賀島でその金印が見つかりこの記述が裏づけられたのです。
その頃、北海道では水田稲作は行われず鉄器を持った「続縄文文化」へと移行し、
沖縄は水田稲作の無い「貝塚文化」の時代であり沖縄の貝殻加工品が北海道まで流通していました。
そして後漢の歴史書にある倭の中に、3世紀前半、卑弥呼で有名な邪馬台国が成立します。
その後、近畿地方を中心に全国に巨大古墳が作られ、大和地方の王を盟主とした王権が生まれたと考えられます、
これをヤマト王権と呼びます。
魏志倭人伝に『倭国乱れ、相攻伐すること歴年、及ち共に一女子を立てて王となす』
とあるように内戦状態は遺跡発掘により裏づけもされ、
卑弥呼に代表される権力の集権も始まり権威権力を誇示する巨大前方後円墳へと繋がってゆきます。
巨大前方後円墳の埴輪など一連の出土品は強く朝鮮半島の影響を受けており、
また朝鮮半島南部に前方後円墳も近年発掘され、
五世紀中国の宋書簡「宋書倭国伝」とによってヤマト王権が、
百済、新羅、任那、加羅、など朝鮮半島との諸軍事に関与していたことの裏づけともなっています。
埼玉古墳群で一九六八年「稲荷山古墳出土鉄剣」が発見され
一九七八年には鉄剣の金象嵌文字による文がX線解析により、
この地方がヤマト王権である倭の五王直属の支配下であったことも解り、
群馬県三ツ寺遺跡では一九八〇年代に日本で初めて九〇メートル四方の柵と堀を持つ豪族の館も発掘され、
出土品や館跡の構造の分析により地方も朝鮮半島と強いの結びつきだけでなく
朝鮮半島からの渡来人も豪族となっていったと認識されるようになりました。

次回は日本の古代へと進みたいと思います。
 




















  


   

           
  縦書きで記事を書いてみました
                 カーソルを記事の中央付近に置きマウスのスクロールを使うと横に上手くスクロールすると思います。  


 随分日にちが経ちましたが
ムハンマド(モハメッド)以降のイスラムとヨーロッパの関係について、私なりの考察をまとめておきたいと思います。

 結論から先に、
ヨーロッパルネッサンスはイスラム抜きでは語れない事と
その認識が今日のヨーロッパ各国の歴史認識に於ける民族的思想と文化形成の根底を成している事
そしてそれを認識していない日本の姿が見えて来るのでは、と言う経緯を書きまとめ様と思います。

 ムハンマド誕生期のメッカには三百以上の神々が祀られ、多数の部族により交易都市として発展していました
富める者が貧者を支配する社会だったようです。
 そこに唯一神なる神の啓示を受けたムハンマドが神の言葉を発し伝え
社会の人的平等と権利を唱え、多神教と偶像崇拝を否定し、布教を始めました。
ある程度の人々から受け入れられる様になると、支配階級と敵対し軋轢を受けるようになり
農耕都市であるメディナへ逃亡するかのように、七十名余りの彼を支持する親族と信者とで移り住みます。
メディナでムハンマドを中心とするイスラム共同体(ウンマ)が作られ、メディナの人々に受け入れられ
やがて都市そのものがイスラム共同体と成り武装しメッカを目指す様になります。
最初のメッカ進行はムハンマド達イスラム信仰の発祥の地であるメッカ巡礼を求める戦いでした
しかし奇跡的勝利を得てムスリムの大々的侵攻へと繋がりメッカは陥落し、イスラム教都市と成たって行きました。
その後、ムハンマドはメッカを聖地とすると共に祈りのあり方や巡礼・断食等の五行を定め
アラビア半島で敵対する部族勢力を武力によって統治し、アラビア半島をイスラム教で統一しましたが
その直後他界しました。
ムハンマドが神からの啓示を受け半島を統一し他界するまで、二十年ほどの年月でした。

 ムハンマドの予言の言葉を集め書き留めたのがコーラン(クルアーン)であり
コーランの解説書と言えるムハンマドの歴史が記されている書がハディースです。
 これらの書をもって後の実質的指導者のカリフ達は
(カリフとはメッカからメディナへムハンマドと共に移りメッカ侵攻を戦った最初の信者や血縁者の中の
数人によるムハンマドの後継者)
そのカリフ達は、地中海沿岸から中央アジア・東ヨーロッパを侵攻し、イスラム帝国建設へと導いて行きます。
この他圏侵攻がコミューンと言えるイスラム共同体(ウンマ)を変容させ
それは国家・王国的性格を持ち富と権力の一極集中を生んだイスラム帝国を築き
その後イスラム圏(正統カリフ以降の血族カリフによるウマイヤ朝、アッバース朝)の崩壊へと繋がるのです。
 
 ここで血統による正統カリフのみが指導者カリフであるとするシーア派と
カリフは血統だけにはよらず選出されるとするスンナ(スンニ)派とが生まれました
四人の正統カリフの死後スンナ派が主流と成りウマイヤ朝アッバース朝等を起こしますが
結局それぞれの王朝はその血族部族による世襲によって引き継がれました。
これらの事柄は本来のイスラム教の求める人的平等と権利の平等に反し
支配者層の富は都市を構築するほどの膨大なものに膨れ上がって行った様です。
その富への欲求が八世紀代には
エジプト・北アフリカ・イベリア半島(スペイン)・中央アジア・東ヨーロッパ・イタリア半島の一部までも進出を果たし
大帝国となり、長くスンナ派とシーア派との勢力争いは続きます
十世紀にはついに分裂を起こし、十一世紀から十二世紀にかけて衰退して行き
しかし一部一時期勢力を吹き返しますが、十三世紀にモンゴル帝国によってアッバース朝は完全に滅ぼされてしまいます。
その後もイベリア半島の南部に三百年近くイスラム勢力は残りますが
十五世紀末にグラナダが陥落しイベリア半島での終焉を迎えます。
 
 イタリア半島南部とシチリア島(ブーツを履いた足とその足が蹴った三角の島)を九世紀頃イスラム教徒は支配します
そこにイスラム・ギリシャ正教・カトリックと宗教文化は共存し多様性を持つ文化圏と成り十二世紀末まで続きます
その結果ヨーロッパの文化文明に大きな発展をもたらすルネッサンスの布石とも言える
シチリア・エジプト・シリア西部の支配から得た知識により発展したイスラム哲学やイスラムの科学的学問は
近代ヨーロッパ文化の基礎を作る事と成ります。
 ギリシャを含むバルカン半島をイタリアで始まったルネッサンス時代の十五世紀以降、オスマン帝国が支配し始め
四百年近く統治します。
ヨーロッパに対するイスラム文化の直接的影響は
ルネッサンス以降に貧小と成りますが、八世紀からの十八世紀の千年間にも及ぶとも言え
 バルカン半島北部にあたるその歴史の渦中である境界線
アルメニア・ボスニア・クロアチア・コソボ・セルビアなどの悲惨を知る事へとも繋がるのです。
 ここまでが簡単なイスラムの流れとしての概要です
ではヨーロッパのいくつかの地方のイスラムの関係を見て行きたいと思います。
主な地域を見る事でイスラム文化とヨーロッパの関係が見えて来ればと考察して見たいと思います。

 先ず今のスペイン・ポルトガルに当たるイベリア半島ですが
日本で見ると奈良時代から鎌倉時代までの五百年間から七百年間の歴史がイスラム支配の歴史
と言うよりスペイン・ポルトガルのイスラム時代なのです。
 アルハンブラ宮殿にイスラム建築の様式が見られるのを知っている日本人はかなり居るでしょうが
その歴史的期間の重さを知る日本人は少ないのでは無いでしょうか。

046-1-3.jpg


 クリックで拡大します。






 写真は桃山時代に狩野派によって描かれた南蛮屏風の一部です
見てみるとイベリア半島でのイスラム支配が終わる頃ガレオン船でポルトガルの人達が来航した時の様子ですが
幾人かのターバンを巻いた人が描かれ、人々は紙風船の様に膨らんだズボンをはいています
日本で見るアラビアンナイトの挿絵などの膨らんだズボンを思い出してください
このズボン、実は日本の「もんぺ」はここから始まったのです
そしてこの「もんぺ」こそイスラムの装束でシルワールと言い、上着もジュッバと言う装束だそうです。
イスラムがポルトガルを去って三百年を経てもイスラム文化が定着しているのがこの屏風絵に見て取れます。

 イベリア半島(スペイン)は紀元前から4世紀までローマ帝国領土で
五世紀にゲルマン民族の移動により西ゴート王国となりましたが文化はローマ文化を継承し
六世紀終わりにカトリック教国となります
しかし百年ほどでイスラム・ウマイヤ王朝に支配された後、七百年間イスラム圏でした。
 スペインには史跡としてローマ帝国の闘技場やセゴビアの大水道橋などローマ時代の遺跡が多くあり
イスラム時代のアルハンブラ宮殿等のイスラム文化があり
イスラムとカトリックの攻防を示す城壁群
後のカトリック・キリスト教時代の全長二百メートルに及ぶ巨大なエスコリアル修道院に代表される幾多のカテドラル
古い街並み、アントニオガウディの百年以上前から建設中のサグラダファミリア寺院など
壮大な歴史が、生きている歴史として生活の中にあるようです。
 乱暴な捉え方ですが文化的歴史的には、石器時代からローマ帝国時代に移り
ゲルマン系西ゴート時代の百年間のカトリック時代を経て、七百年間のイスラム教時代となり
イスラムの終焉を迎え、現代までの七百年間がカトリック時代と言えると思います。
 人類学的には、石器時代の中東からの人々の移入に始まり
青銅器時代にインドヨーロッパ語族の流入があり
ローマ時代のケルト人ゲルマン人の移入となり、このあたりまでをイベリア人と認識し
後にアラブ人・ユダヤ人、北部は(ポルトガル付近)石器時代からブリテン諸島の人々との血流が有り
ラテン系と呼ばれる多様な人々の血による地域と認識して良いと思います。
 この位が私のヨーロッパ西部の流れを捉えるためのイベリア半島でのイスラムとの関係と歴史的背景としての
大まかな認識であり、これらの時代が国として民族的思想して
この地域の文化の起点と成るのだと思います。
 
 次回はルネッサンスへと繋がるイタリア半島南部とシチリアを見て行きたいと思います。














 
プロフィール
HN:
ちょきんぎょ
性別:
男性
自己紹介:
name  :  諏訪 淳
address : 神奈川県足柄上郡

mail : tyokinngyo77yahoo.co.jp
   77の後に@を入れてください。
最新CM
[07/01 WWFJAPAN]
[06/13 ちょきんぎょ]
[06/13 ユックリッピ]
[03/21 ちょきんぎょ]
[03/21 og3]
最新TB
ブログ内検索
バーコード
フリーエリア

Template by Emile*Emilie

忍者ブログ [PR]