忍者ブログ
戯言による『失なわれた感性』への諸々なる思考と日誌
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。




 

 
 
 
昨日記事にしました小沢氏の講演内容とニュース記事について少し
今回のブログの命題にも繋がると思い載せたのでその事に触れたいと思います。

 まず、報道記事との小沢氏の講演内容と対比です
内容に触れているのは読売ですが小沢氏の趣旨とは全く一致していません
何か意識してそのような記事にしたと思えるほど小沢氏の趣旨を無視しています。
アメリカやイギリスの文化や国民性を小沢氏は比較文化論として引用して
日本人の姿を露わにしようとの内容のはずです、
その中で不適切とも言える「単細胞でダメなんですが」の言葉が使われた
その使い方に対しウォールストリートジャーナルが不注意の指摘をしている訳です。
それに対しテレビアサヒは海の向こうで話題になっているとばかりに野次馬報道をしています。
 このような日本の文化と言いますか姿に小沢氏は危機感を持って「一生懸命、真剣に真面目に生きる、ちゅうことが教育、子育ての基本」と
日本の未来に対して「人づくり」が必要だと述べています、
ですが、その事自体も翌日には、このような報道によって野次馬記事に成ってしまうのが今の日本なのです。

それが何なのか、何が根本にあるのかを顕わに出来ればと歴史を機軸に見地を変え見ていこうと、
先ず最初の作業として現在の日本の教育から与えられる歴史観を見ている所なのです。
 
 (ちなみに私は小沢氏支持では有りませんし講演内容も浅く今ひとつと感じています。)


 
 
では、角度を変えて日本史風景を見る(その一) 日本の古代、飛鳥時代からです。
 
 
古墳時代の終わり、ヤマト王権の豪族達の中でも蘇我氏と物部氏が台頭し
 
勢力争いによって曽我氏が物部氏を滅ぼし政治の中央集中化がおきました
また蘇我氏による飛鳥寺の建立も始まり仏教政治へとなって行きました
同じ頃、中国では三百年の戦乱記を経て文帝が国を統一し隋となりました。
(その頃のヨーロッパはローマ帝国が東西に分裂してから二百年が経っており、
イタリア半島ギリシャバルカン地方は東ローマ帝国として、
西ローマ帝国滅亡後フランスドイツ地方はフランク王へスペインは西ゴート王国となって栄えていました。)
 
五百九十二年に推古天皇が即位し、飛鳥時代が始まります。
翌年には聖徳太子厩戸皇子・うまやどのおうじ)が蘇我馬子と共に国政を司り
聖徳太子のよる飛鳥斑鳩宮の造営と法隆寺の建立や
憲法十七条の制定による内政の改革を軸に仏教を中心として国政の改革が行われ、
大化の改新を含む律令政治の基盤が作られたのです。
外交では大国である中国の文明を求め
文化としての儒教と、政治・科学としての仏教を取り入れようと遣隋使を派遣しました
その時の書あった『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々』
はよく知られるところです。
 
隋は三度の高句麗遠征の失敗と、
黄河と長江を結んだ総延長二千四百キロメートルの大運河の建設などで疲弊し
六百十八年クーデターによって倒されます。
六百二十二年聖徳太子死去、六百二十六年蘇我馬子死去
そして六百二十八年には推古天皇が死去します、同年中国では唐が統一国家と成りました。
その後、蘇我蝦夷、蘇我入鹿などの勢力争いや(飛鳥斑鳩宮が焼失)
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)のクーデター「乙巳の変」(いっしのへん)を経て
六百四十六年、中大兄皇子による「大化の改新」の詔(みことのり)が行われました。
 
この間、六百三十年に高句麗大使からの情報により遣唐使を派遣しました、
それは朝鮮半島の百済・新羅の紛争、唐と新羅の結びつきから
日本の朝鮮半島との利害関係を考慮してのことでした。
(この頃イスラム教はアラビア半島を制覇し六百三十二年ムハンマドが没し
この後イスラム帝国が起こりヨーロッパを揺るがし始めます。)
唐は、六百四十五年以降再三、高句麗を攻撃します。
六百五十二年大化の改新以降の念願だった難波宮が完成します。
さらに六百六十年に唐は、新羅と結んで百済を攻撃し百済は滅亡してしまいました。
百済と深い関係を持っていた日本は、祖国の復興をめざす百済の勢力と組み、
六百六十三年、朝鮮半島南部の白村江で唐・新羅軍と対決しますが、唐・新羅軍の圧倒的な強さの前に大敗します。
白村江の戦いで大敗した後唐の来襲を恐れ危機感を持ち、
大宰府の「水城(みずき)」岡山県総社市に残る山城、「鬼ノ城(きのじょう)」など防衛体制を整え、
六百六十七年には都を近江に大津京として移します。
翌年中大兄皇子は天智天皇として即位、六百七十年には全国的な戸籍の始まりと言われる「庚午年籍」が作られました。
天智天皇の死後、六百七十二年に「壬申の乱」が起こります。
これは天智天皇の子・大友皇子と天智天皇の弟・大海人皇子との対立から内乱が起き大友皇子がいた近江の朝廷は滅亡しました。
大海人皇子は天武天皇として即位して権力は天武天皇独りに集まり、蘇我氏などの旧来の中央豪族の勢力は後退していきます。
天武天皇は、都を飛鳥に移し、「飛鳥浄御原宮」の造営を始めました
(千九百九十八年、飛鳥池遺跡で「天皇」の文字が記されて木簡が出土しています。)
天武天皇の死後、皇后が持統天皇として即し、既に始まっていた碁盤目状の都の建設を進めて六百九十四年に藤原京遷都を行います。
古代は、「律令」という法律に基づく時代であり、律令の律により刑法・犯罪に対する刑罰を定め令はそれ以外の法律であり、
政府や税の仕組みを定め「行政法」や今の民法・商法に当たるものも含んでいます。
日本は中国に倣って律令を持って運営し律令国家作りにまいしんします。
このころの「律」は中国から持ち帰った「律」を使っていたようです。
天武天皇から持統天皇の時代に行われたといわれる政策とは
八色の姓と言い豪族の政治的地位を新たに八段階にしました。
藤原京の造営や戸籍に基づく六年ごとの班田収受を始めました。
「日本」という国号も国外向けに使われ始め、古事記・日本書紀の編纂も始まりました。
 
七百十年、藤原京から平城京に遷都して飛鳥時代から奈良時代へ移ります。
平城京は中国、長安に習って5キロメートル四方城壁で囲まれた碁盤状の都で東側にはおよそ二キロメートル四方の外京(げきょう)が張り出していました。
平城京の人口は、平民を含め約五万から十万人くらいだったと見られています。
そのうち貴族上級官人は百二十人前後で、中・下級官人や貴族の家で奉公する人たちやその家族、僧侶や上級兵士です。
貴族とはヤマト王権と縁の深い飛鳥地方の豪族であり、
推古天皇の時代に作られた冠位十二階を唐にならった位階制度として整備して出身などによって位を授けられた者達です。
位階は、「正一位」から「少初位下」まで三十段階あり貴族とされるのは五位以上で多様な面で優遇され、
「給与」は六位と五位とでは年収に倍以上の開きがあったようです。
貴族の食事や生活は実に多彩で、現在正倉院に保管されていた聖武天皇が愛用した品々によって伝えられていますし、
平城京跡から発掘された「荷札木簡」によって地方から運ばれて来た食料や物産によって知ることが出来ます。
 
その律令国家は、全国を「五畿七道」に分けており
「五畿」は畿内をさし、都周辺の五つの国を言い、それ以外の国々は、「道」という行政単位で7つに分けられ、それぞれ「国府」が置かれていました。
九州は大陸との外交や防衛の拠点として重要な地域だったため「大宰府」が置かれていました。
大宰府は、九州全体を統括すると共に、中国や朝鮮半島との交流も担い「防人」(さきもり)によって防衛拠点ともなりました。
七百二十四年、陸奥国に律令国家の北の最前線として「多賀城」が国府として作られ、東北地方支配の拠点とされました。
 
地方は行政単位として「国・郡・里」という区分に整理され国司と郡司によって治められ
国司は任期が終わると都に帰りましたが、郡司に任命されて郡を治めたのはその土地の伝統的な豪族でした。
最近の研究では、「国」よりも「郡」の方が、地方支配においてより重要な役割を担っていたのではないかとされています。
中央は地方豪族のその土地を掌握してきた実績を律令体制に組み込むことで地方を支配しました。
一方の地方豪族も、国家の後ろ盾を得ることで支配をより確かなものにしたようです。
 
では地方の支配ですが、まず6年に一度の割合で戸籍が作られ家族全員の名前や年齢、続き柄などが詳しく記録されました。
「庚午年籍」に基づいて6歳以上の男女に口分田が班給(割り当て)され、収穫のおよそ三%を税として収めました。
その他「庸」「調」の税の他に、年間六十日以下の労役や、成人男子3~4人に1人程度兵士を出す「兵役」などがあり、
税以外でも、重い負担となったのが「公出挙」(くすいこ)でした。
これは元々は田植えの前に稲を貸し出す農民を助けるための制度でしたが、後には強制的に貸しつけて利息を取るようになりました。
しかし「出雲国風土記(ふどき)」には、人々が温泉に入って楽しんでいたという記述もあり、
「常陸国風土記」に筑波山に花見や紅葉狩りに行ったとも書かれています。
 
また奈良時代は国分寺と地方寺院の建設を中心にお仏教が地方へも深く広がってゆきました。
七百四十一年、聖武天皇は詔を下し、国ごとに「国分寺」と「国分尼寺」を建立することを命じました。どちらも、国府のそばに建てられました。
聖武天皇によって仏教による国家安定を求め七百四十三年、大仏を作ることを命じます。
七百五十二年の開眼供養の儀式は、一万人の僧侶が参加し
大仏の造立は、仏教によって国を守るという聖武天皇の願いと、律令国家・日本の威信を内外に示す一大イベントであったのです。
 
次に平安時代へと。
 
 
 






































 
PR
この記事にコメントする
Name
Title
Color
E-Mail
URL
Comment
Password   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
TrackbackURL:
プロフィール
HN:
ちょきんぎょ
性別:
男性
自己紹介:
name  :  諏訪 淳
address : 神奈川県足柄上郡

mail : tyokinngyo77yahoo.co.jp
   77の後に@を入れてください。
最新CM
[07/01 WWFJAPAN]
[06/13 ちょきんぎょ]
[06/13 ユックリッピ]
[03/21 ちょきんぎょ]
[03/21 og3]
最新TB
ブログ内検索
バーコード
フリーエリア

Template by Emile*Emilie

忍者ブログ [PR]