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戯言による『失なわれた感性』への諸々なる思考と日誌
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角度を変えて日本史風景を見る(その一) 日本の古代(平安時代)
 
 
ここで最初に仏教についてすこし、
現在の高校教科書には仏教の流れを変化としては記されていないようですが、
私としては大変重要だと思いますので飛鳥時代からの流れを簡単にまとめて、
教科書にある平安仏教を書きたいと思います。
 
飛鳥時代に仏教が伝来し、貴族仏教と貴族統一統合神道の融合化がおこなわれました。
平民にとっての民間神社信仰は民衆を統一するための神道として用いられ、
貴族は仏教を中心に信仰し、同時に統一神道の祖ともなりました。
奈良時代には仏教が次第に民衆にも浸透してゆき、仏教と民間山岳信仰の融合などにより修験道がおきます。
平安時代は民間の間にも本地垂迹説が浸透し、神仏習合化が進んでいきました。
本地垂迹説とは日本の八百万の神々は、実は様々な仏や菩薩が化身として日本の地に現れ権現となったとする考え方であり、
神仏習合化とは神道と仏教を両立させるために、奈良時代から始まっていた神と仏を同じものとして一緒に祀り合理的に整合させたものです。
簡単に書きましたがこのように仏教の流れの変化が民衆統治を表しているのを見落としてはなりません。
 
では教育現場での仏教について少し。
桓武天皇は遣唐使の一員として空海・最澄達を中国へ送り密教を学ばせ、
高野山(真言宗)と比叡山(天台宗)とに寺を置き密教を広めました。
また浄土信仰が広まり貴族達も阿弥陀仏を求め宇治の平等院を建立しました。
平安時代の後期には政治的後ろ盾により富裕化した寺院は武装化し
僧兵となって勢力抗争を起こすようになって行った時代が平安時代の仏教と有ります。
 
ちょっと見地の違いを見る文を書いてしまいましたが、
私たちが一般的に認識する歴史とは重大な要素が抜け落ちてはいないでしょうか
私たちが日々目にする、または参拝したり式を行う神仏は私たちの祖先の暮らしの中で、
どのような遍歴を経て今に至っているのか歴史を生活の中で感じ取れなくては
何を文化として未来へ繋いだら良いのか解らなくて当然のように思うのです。
 
 
 
では教育における歴史へと戻ります。
 
平安時代とは現在の京都市中心部に桓武天皇により都として平安京が置かれ、
鎌倉幕府成立までの三百九十八年間を指します、
桓武天皇は平城京から長岡京を京都盆地の南西に作らせましたが二度の洪水によって七百八十四年、平安京へと遷都しました。
平安京は明治の初め首都が東京となるまでの千年の間を都とされました。
その平安時代の初頭は桓武天皇から平城天皇へと、そして嵯峨天皇へと中国から取り入れた律令政治の立て直し時代であり、
文化は中国からの唐風文化時代です。
桓武天皇は、蝦夷を征服する戦いを三度行います七百八十九年この時は蝦夷の指導者アテルイに負け巣伏(すぶし)の戦いで大敗北を喫します。
八百一年、坂上田村麻呂を征夷大将軍とする3度目の遠征により田村麻呂は蝦夷を制圧し、胆沢城を築きアテルイとモレは降伏し、
田村麻呂は現在の盛岡市に志波城(しわじょう)を造営し蝦夷を征服しました
その後、桓武天皇は亡くなり平城天皇へと移行しますが嵯峨天皇との「二所朝廷」となり争いに勝ち、
蔵人所や検非違使の設置、弘仁格式を施行することによって平安京は「万代の宮」「千年の都」となります。
平安時代半ばになると藤原道長に代表される摂関政治が行なわれ
文化は唐風文化を土台に人間の微妙な心理や複雑な人間関係を鋭く描いた紫式部の「源氏物語」など、
日本の美意識である日本風の文化が生まれた時代です、
藤原道長に代表される摂関政治は天皇の身内となることが重要であり、天皇に入内した娘に紫式部のような才女を送り込み教育係としたのです。
そして平安時代の終わりごろは院政が行なわれ武士が活躍する時代となり、この時代は古代ではなく中世だとも言われています。
また貴族にも大きな変化が現れます、桓武天皇の子孫の桓武平氏から平清盛なども出て来ますし
平城天皇の子孫は「伊勢物語」の主人公にもなる在原(ありわら)氏となり、
嵯峨天皇の子供で源を名乗った嵯峨源氏は貴族社会の大きな勢力となっていきます。
 
一方、貴族達ですが、貴族たちはは呪術色の強い密教の浸透によって密教儀式が生活の中心となって行きました、
朝廷や地方も、国家の安全などを密教儀式により祈り、
日々の生活も穢れの清めなど多種多様な宗教儀式が年中行事化としてゆきます。
政治は国司など地方の官職を任命する除目によって任命され「受領」となり各赴任先で国内支配の実験を握って行きます。
 
十世紀前半に承平・天慶の乱が関東と瀬戸内海でほぼ同時に起きます、
この戦いにより武士が生まれてきました。
その武士は、都で貴族や天皇家との密接な関係を作り国家権力に近づく者や地方に根づき領主となり、大きな勢力になります。
このように、武士はもともとは検非違使など貴族や役人「軍事貴族」だったという考え方が現在では主流です。
 
ではその武士の実態について少し詳しく、
「後三年合戦」の絵巻などで武士の戦いの様子が知られ武士が戦闘に特化した集団として確認できます。
九世紀から十世紀に東国は征服され殖民とされた蝦夷の反乱などにより乱れていて、東国の国司に軍事貴族が任命されました。
そんな中、東国の国司に任命された平高望は任期が終わった後も都に戻らず子孫と共に東国に勢力を広めていき、
孫に当たる平将門は「承平・天慶の乱」の主役の1人で、最初は都に出て摂関に仕えていました。
しかし、親の急死により東国へ戻り茨城県西部を拠点とし東国を支配し自らを「新皇」と称し「将門の乱」を起こしまが、
後に平貞盛や藤原秀郷らによって将門は倒されました、
そして藤原秀郷と平貞盛は貴族の位を獲て都を中心に広域勢力を持って行くことに成ります。
しかし「将門の乱」とほぼ同時に起きた瀬戸内での「藤原純友の乱」の鎮圧に軍事貴族を起用しましたが、
その軍事貴族達も在地武士や都の武士となり、「武士の棟梁」として頭角を現わしたのが平氏と源氏なのです。
 
千五十一年、東北の陸奥国にて「前九年合戦」が起こりました。
これは源頼義・義家親子による東北地方への勢力拡大に伴う合戦でもあり、
そのころの東北は豊かな物資の産地であったため、多数の豪族や武士が利権を求めて起きた戦乱でもありました。
前九年合戦の二十年後、千八十三年に「後三年合戦」も起こります
前九年合戦によって利益を得たのは、頼義に援軍を送った清原氏でしたが当主である真衡と、その弟の清衡と家衡との地位を巡って対立します、
そして源義家とともに戦った清衡が家衡を倒し東北の支配権を手にし百年にわたって栄華を誇る奥州藤原氏となりました。
奥州藤原氏は岩手県、平泉を拠点にし中尊寺など優れた都市文化を築きました。
このように東北武士も貴族や国司を源流とする者から成ったのです。
 
 
ここで高校の教科書には奈良時代・平安時代の農民の生活として次のように書かれていますので記しておきます。
『奈良時代、農民には兵役のほか、雑徭などの労役や運脚などの負担があったため、生活に余裕はなかった。
さらに、天候不順や虫害に影響されて飢饉も起こりやすく、国司・郡司らによる勧農政策があっても不安定な生活が続いた。
農民には富有になるものと貧困化するものとがあらわれた。
困窮した農民の中には、口分田を捨てて戸籍に登録された地を離れて他国に浮浪したり、
都の造営工事現場から逃亡して、地方豪族などのもとに身を寄せるものもふえた。
平安時代である八世紀後半から九世紀になると、
農民間に貧富の差が拡大したが、有力農民も貧窮農民もさまざまな手段で負担を逃れようとした。
そして戸籍には兵役労役租税を負担する男子の登録を少なくする偽りの戸籍がふえ、律令の制度は実態と合わなくなり、
手続きの煩雑さもあって版田収授は実施が困難になっていった。』と平民の生活について書かれています。

























 
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無題
結局困窮する人々が生まれるのは
権力者が権力争いをするので起こる
自分たち権力のベースはその民にあるのに
そこを忘れる
そして結果社会のありかたが変わる

それが現代までの歴史の流れ

権力闘争で民を忘れるのは今の日本も同じでは

欲が欲を生み制御が利かなくなる

学習能力がないのは権力者か
果たして国民か
クレオバンブー中村 2010/09/05(Sun)03:44:55 編集
中村さんへ
実は平安時代の、学校教育で称されている農民とは、班田収受によって土地をあてがわれ稲作を中心とする農耕に従事する荘園内の民で、言わば雇われ農民的な人々なのです。
荘園外には多くの本来からの百姓もいました、蝦夷もそれに属します。
そのような社会構造に注目し、そこにも重要な歴史の一面があるのだと認識されていない現状があります。

日本では権力者の争いによって困窮する民が生まれるのは戦国時代だけとも言える実態があります。
それが、ヨーロッパなど大陸での権力争いはもろに平民の生死へと繋がるのですが、日本はそれ程の歴史は無いですね。

そこに日本の特質が秘められていると私は思うのです
歴史によって特質を生んだ社会構造が現代では急変し、また変容した事を私たちは自覚出来ておらず
その元来からの特質と急変した社会構造への自覚の無さとを持ち合わせ異質なものを内在させたまま混迷しているが、今の日本の姿とも捉えられると感じています。

それが混迷を繰り返す政治と社会となって表れているように思えて成りません。

国の基盤が農業や牧畜、漁労や林業といった第一次産業の安定と余裕によって支えられていると言う事を忘れた権力の時代は明治維新以後だとも言えると私は見ているのですが、いかがでしょう^^
ちょきんぎょ 2010/09/05(Sun)09:33:17 編集
無題
明治維新では植民地化を逃れるため欧米化を急ぎそのひずみがそのまま現代まで引きずっていると思っています

それは精神の内部が近代化されずに来たのかなと

それが敗戦によってまたいびつになる
アメリカナイズすることに何の違和感を持たない戦後世代が多数を占めるようになり

1次産業が国の根幹をなすことの自覚が権力者のみならず国民まで
無関心層が多数を占めるようになった

というふうに私は思っていたのですが

諏訪さんはそこを更に深く考察してます

なるほどと思います
クレオバンブー中村 2010/09/05(Sun)19:47:21 編集
無題
維新後からの近代化での歪みとは、この近代化と言うものが欧米の社会性をそのままコピーした欧米化だったこと
日本は日本的精神構造による新たな近代的社会構築を目指さなければいけなかったと言えるように私も思えます。
もし今、日本の精神的現代社会構造を再構築しようとするなら
私たちの根源にある精神構造(感性)の正しい認識が不可欠だと考えます。

そして、この一次産業ですが、現代ではどのように捉えるか、どのようなスタンスに置くか様々な考え方があり未来への課題となっています
実際韓国はアフリカや西ヨーロッパに契約農地を確保し国策として進めています。
もう一次産業二次産業という捉え方さえ出来なくなりつつもあります
この変容を認識し対応するには歴史にある根っこの部分を理解していなければ
日本の未来に対してただ漠然とした大きな課題として立ち塞がるだけになってしまい
解決するにもただその課題を取り除くだけでその場を良しとしてしまうだけでしょうね。






ちょきんぎょ 2010/09/05(Sun)22:17:12 編集
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男性
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name  :  諏訪 淳
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