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戯言による『失なわれた感性』への諸々なる思考と日誌
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  角度を変えて日本史風景を見る(その一) 日本の中世
 
 
この日本の中世と呼ばれる四百年強の時代を一気に進んで江戸時代へ入った所で教育における日本史を終えたいと思います、
この中世史は先ずあらかたの時代を書きまとめて後、年表でその歴史の流れの確認とその時代の文化に触れて、
歴史認識を機軸とする日本人の感性への探求、基礎中の基礎の復習と再確認をして、その見地に立つ始まりとし、
その入り口に立ちたいと思います。
そして次回より私の私的な歴史の見地に立って書いて行きたいと思います。
 
 
 
 平安時代から鎌倉時代への流れ
四百年近く続いた王朝国家体制と平貞盛によって栄華を極めた摂関政治による平安時代にも変化が現れ、
源氏武士の台頭により平安時代は終わりを告げる事に成ります。
十二世紀終わりに始まった武士による政治体制下の時代を鎌倉時代と呼び、頼朝によって政権は鎌倉の地に移されました。
十三世紀前に承久の乱によって公家は武家政権に従属し御家人の筆頭である北条氏による執権政治が確立しました。
十三世紀中期頃から、貨幣経済の商品流通が活発になり、
地頭となった武士による荘園公領での支配が強くなって大きな社会の変化が起こり始めました。
この変化は元寇(蒙古襲来)の影響もあって強くなり、各地で「悪党」など野党集団が起こり荘園や公領の社会変化を生み、
徳政令発布や得宗専制という政策が行われました。
文化的には運慶と快慶の東大寺南大門金剛力士像など写実的な美術が展開し、
宗教では鎌倉仏教成立により一遍などによる民衆仏教も普及していった時代です。
(琉球地方は長く続いた貝塚時代からグスク時代へと移ります。
北海道は紀元前からの続縄文文化が飛鳥時代には擦文文化へ変化し
この時代に鉄の伝播によってアイヌ文化となって行きます。
また、ヨーロッパでは東ローマ帝国やフランク王国が各王国へと分裂し、
オスマントルコやビザンチン帝国の台頭の時代でもあります。)
 
 
 
 年表にそって平安時代末期から見て行きましょう。
千百七十七年、武士である平清盛と対立し院政を行なっていた後白河院の近臣らが清盛ら平氏打倒を計画しましたが、
清盛に計画は漏れ関係者は処分されます。
千百七十九年、清盛は武力で後白河院を京都郊外の鳥羽殿に幽閉し院政を停止、自らが政権を握る。
千百八十年、清盛は娘徳子と高倉天皇の間に生まれた三歳の孫の安徳天皇を即位させた。
そのため天皇継承から外された以仁王は、源頼政とともに諸国の武士や有力な寺院に挙兵を呼びかけ、
平氏打倒へと挙兵します。
そして六年間に及ぶ源平の戦いを含む「治承・寿永の乱」が始まります。
十月、以仁王の令を掲げ流刑となっていた頼朝が東国で挙兵し富士川の戦いにより平氏の大軍を破る。
頼朝の家来となった御家人たちは頼朝を「鎌倉の主」と呼びました。
同年の暮れに東大寺や興福寺が焼け落ちます。
千百八十一年清盛死す。朝廷によって重源の東大寺復興事業が始まります。
千百八十三年、頼朝は後白河法皇から東海道・東山道の支配を認められる。
一方同年、信濃で勢力を強めた頼朝の従兄弟、河内源氏の源義仲は北陸の倶利加羅峠の戦いで平氏を破り、
二ヶ月後には京都で平氏を都から西国に追いやります。「平家一門の都落ち」
しかし、義仲は後白河院と対立するようになり、頼朝の弟、義経に滅ぼされます。
千百八十四年二月、その後義経は一の谷の戦いで平氏を退け、
千百八十五年、義経は屋島の戦いで、平氏を破ります。同年、東大寺の大仏開眼供養が行われました。
三月二十四日、関門海峡の壇ノ浦で西国の武士の加勢を受け最後の戦いが行われ、平氏を滅ぼしました。
同年、頼朝は各地に「守護地頭」を置き実権を強めて行き、頼朝と義経の兄弟の対立が深まります。
その後、義経は奥州平泉の藤原秀衡にかくまわれますが、息子の藤原泰衡によって殺されます。
千百八十九年、頼朝は御家人制を確立しようと平泉に攻め入って藤原氏を滅ぼし東西の実権を握って行きます。
このように平安時代の貴族から成る武士を筆頭とする武士同士の戦い「治承・寿永の乱」は終結しました。
 
 
 
 千百九十二年、頼朝は征夷大将軍となり鎌倉幕府成立と成ります。
(幕府成立時期について諸説ありますが現高校教育では千百九十二年としています。)
千百九十五年には大仏殿が完成し大仏殿落慶供養が行われ、頼朝は新しい権力者として仏教を尊重する姿勢を示しました。
千百九十九年頼朝死す。頼朝の息子で独裁的な頼家が跡継ぎになり、
母である北条政子が実権を握ろうと画策し出します。
千二百三年、病に伏した頼家を北条政子は伊豆に出家させ後に暗殺します、
政子は頼家の弟である実朝を将軍に据え執権についた政子の弟である義時と共に権力を強めて行きます。
同年、東大寺復興が終了。
千二百十三年、義時は頼朝以来の有力武士である和田義盛たちを挑発して滅ぼし権力を強めます。
千二百十九年正月、実朝が頼家の息子の公暁に鶴岡八幡宮で殺されます、これにより第4代将軍に二歳の藤原頼経が成り、
北条政子は後見人となって、執権の義時と共に実権を完全に握ります。
千百二十一年、後鳥羽上皇は権力を握った北条氏と対立し、北条義時追討令を発します、
それに対し政子は上皇との対立の意を幕府対公家の逆臣との戦いだと言うすりかえにより、
東国武士を結集させ「承久の乱」を起こし圧勝します。
後鳥羽上皇は対馬へ流されました。
 
鎌倉幕府が成立して暫らくすると、源平合戦の時に頼朝により各地に置かれた「守護地頭」が、
荘園領主との摩擦を生み農民を苦しめ年貢が滞るようになります。
その処置として幕府は「地頭請」や「下地中分」を定め地頭と領主の関係を律し統治を図りました。
千二百三十一年、寛喜の大飢饉。
千二百三十二年、飢饉の混乱の修復を含む武家諸法度である御成敗式目制定し政治の安定を図ります。
千二百五十七年 鎌倉の大地震により鎌倉の街は大打撃を受ける。
千二百五十八年 正喜の飢饉、地震飢饉と幕府は翻弄される。高麗がモンゴルの属国になる。
この頃から悪党の活動が激化する。
(悪党とは、荘園や公領の内外でから荘園領主や幕府に武力で対抗する人々を悪党と呼びました。)
千二百六十四年、モンゴルが樺太遠征。
千二百六十八年、フビライの国書が高麗からの書状として鎌倉に届きます、この時に北条時宗が執権となっています。
同時にモンゴル軍との戦に備えも始まります。
千二百六十八年、高麗で三別抄の乱が起こり、翌年に高麗牒状(三別抄からの救援要請文)が日本に届きますが公家は理解できませんでした。
千二百七十二年、三別抄の乱がモンゴルに敗れ日本の危機が迫る。
千二百七十三年、文永の役。モンゴルと高麗の十四万近い連合軍が博多湾岸に現れ上陸、
肥後国の御家人たちが迎え撃ちますが大敗し博多まで上陸されます、しかしなぜかモンゴル軍は突然撤退します。
千二百七十九年 南宋が元となったモンゴルに滅ぼされる。一遍の踊念仏が始まり民衆によって盛り上がる。
千二百八十一年 二度目の蒙古襲来、弘安の役となります。
文永の役での教訓から作られた九州各地の防塁効果や戦法と、
偶然起きた暴風によって打撃を受けたモンゴル軍を小船による夜間の奇襲攻撃などによって撃退しました。
千二百八十二年 一遍が鎌倉に入る事を幕府は拒む、踊念仏は益々高まる。
千二百八十五年、霜月騒動によって北条氏の本家の流れ「得宗家」が台頭して来ます。
千二百八十九年 一遍没する。
千二百九十三年 関東一円に大地震、鎌倉は甚大な被害にさらされる。
この頃には悪党の集団は大きく武装化が益々進みます。
得宗家の力が強くなるとともに、得宗家の家臣が幕府の政治をにぎり、領地も拡大していきました。
貨幣経済の発達によって疲弊した御家人も増え不満が高まっていきます。
千二百九十七年、永仁の徳政令が発布され御家人の救済を行いますが、
逆に借金を行えなくなった御家人が多く困窮して行きます。
千三百十八年に即位した後醍醐天皇はは自分の子に皇位を継がせたく思い、
やがて政治の実権を天皇にとりもどそうと考えます、
皇位継承による二つの系統が対立したために幕府によって定められた両統迭立を無くすためでした。
千三百二十四年、鎌倉幕府打倒を図りました。正中の変。
千三百三十一年、朝廷の皇位継承をめぐる争いがあり、後醍醐天皇は再び倒幕を図り失敗し、幕府に捕えられ退位をせまられ、
千三百三十二年に出雲国、隠岐に流されましたが、息子の護良親王が吉野で挙兵し、
河内の楠木正成も悪党ら反幕府勢力を結集し挙兵しました。
千三百三十三年、後醍醐は壱岐を脱出。
幕府から後醍醐討伐を命じられた足利尊氏が反旗をひるがえし京都にある幕府の六波羅探題を攻め落としました。
同じ時期、御家人の新田義貞が倒幕の兵を起こし鎌倉を攻め北条氏を倒し、
百五十年ほどの鎌倉幕府は終わります。
鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は京都に戻り、鎌倉幕府が立てていた光厳天皇を退位させ、天皇自ら政治を行います。
この政治は、千三百三十四年に年号が建武となったため、建武の新政と呼ばれます。
 
建武の新政による政府の雑訴決断所は訴訟に対応する機関であり天皇直轄となっていました、
それは律令制度の機構であり鎌倉幕府の行政機関を取り込んだものです。
その事によって天皇からの恩賞や土地の所有権確定は、天皇の決定を記した文書が最優先となり、
武士は軽視され、過去の経緯などは無視されました。
それにより武士の新政への批判が高まっていきました。
 

 
 大覚寺統の南朝と足利氏が支援する持明院統の北朝。
大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政によって天皇専制の政治が行われましたが、
武士層の不満が増すと、足利尊氏はそれを背景に大覚寺統の新政から離反して持明院統を擁立し北朝となります。
荘園公領制の変質により社会各層における対立が強まり南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開します。
後醍醐天皇側の南朝は一時、九州全土を支配し勢力を強め、
千三百五十年、北朝側は尊氏と部下の高師直と尊氏の弟の直義と対立により観応の擾乱を起こします。
直義は翌年には南朝へ就きます。
武士達が一族内の抗争や荘園領主と近隣の武士同士による領地争いの対立を起こし、
この対立関係が南北両朝の対立とも結びついたため六十年間の複雑な内乱となって行きました。
 

 
 幕府が京都の室町に置かれ政権が確立し室町時代となります。
千三百三十六年、後醍醐天皇と対立した足利尊氏が持明院統の天皇を擁立し幕府を開きましたが、
京都に本拠を置いた幕府は朝廷の権能を次第に侵食し朝廷は政治実権を失っていきます。
また各国に置かれた守護は、幕府による経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて国内支配力を強め、
国衙機能を取り込み守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制が出来て行きます。
守護大名を束ねた幕府は、守護領国制を基にした相互補完的な支配体制を確立して行きます。
千三百七十七年、倭寇朝鮮侵略がピークに達する。
千三百九十一年、明徳の乱で幕府軍の優勢が確立。
千三百九十二年、三代目将軍義満によって南北朝が統一され武家政権となりました。
千三百九十七年には金閣寺を建立し、日明貿易により明皇帝から日本国王として認められました。
また幕府は鎌倉公方を置き、その補佐機関として上杉氏による関東管領を据えます。
しかし治世は守護大名の勢力拡大が強く幕府側と守護の戦乱が多数発生し
鎌倉公方も幕府と対立して数十年もの間、永享・享徳の乱が続き鎌倉の地は荒廃し
東国は多くの築城が進み一足早く血生臭い戦国期化して行きました。
西では守護大名と幕府との守護体制は十五世紀半ば近くまで続きました。
千四百八年、義満が亡くなる。
千四百十六年、元寛等管領の上杉禅秀が鎌倉公方の反旗をひるがえす。
千四百十九年、朝鮮軍が倭寇への報復に対馬を攻撃。
千四百二十八年、正長の土一揆に幕府は翻弄される。この頃より民衆の連帯組織が支配階級へ政治的要求をし
紛争へと発展して行きます。
千四百四十一年、嘉吉の土一揆は三万にもなり京都を襲います。
千四百六十七年から十一年間の、家督争いや幕府の実力者たちの対立がからみあう、
応仁の乱によって室町幕府は揺らぎます。
千四百八十二年、京都東山に和風建築の基となる禅宗による銀閣寺が立てられます
文化的に、連歌・猿楽・茶道など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化が栄え、
国人による連歌の会などが出来、一揆と結び民衆の支配を行い守護と対立するように成ります。
そして、荘園の領主や地頭の系譜である国人の率いる一揆を含む内乱が続き、力を失墜させていった幕府は分裂し始め、
千四百九十三年、明応の政変を機に、ついに崩壊しました。
 
 
 
 十五世紀後期から十六世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼びます。
この時代は、守護大名や国人などを出自とする戦国大名が登場し、
それら戦国大名勢力は封建的な支配体系を徐々に崩して各地で自立化が強まって行き、
支配地であった領国地は地域国家へと発展し、日本各地に多くの大名領国が現れて行きました。
地域国家間の政治や経済の問題は武力によって解決が図られる様に成ります。
東国では十六世紀になると、小田原に本拠に持つ北条氏が関東に進出してきて戦乱は劇化して行きました。
そうした流れの中で十六世紀半ばに登場した織田信長は、
兵農分離などにより自領の武力を強力に組織化して急速に支配地域を拡大していきました。
またその頃、火縄銃やキリスト教が伝来し、それまでの戦術や日本の宗教観念に大きな影響を与えました。
 

 
 そして安土桃山時代と移ってゆきます。
織田信長は室町将軍足利義昭を放逐し、室町幕府に代わる畿内の安土に政権を樹立しました。
しかし、信長が本能寺の変より滅ぼされ、天下統一の目標は豊臣秀吉に引き継がれました。
秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定し国家統一をおこないました。
秀吉もまた中世的支配体系の改革を行い、太閤検地や荘園公領制をしいて職の体系を消滅させました。
秀吉は明を攻めようと二度にわたり朝鮮への出兵し暴虐を行いましたが、その最中に死去します。
後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化していきます。
秀吉による天下統一は、政治や経済の安定がもたらされ武士を中心とした豪壮な桃山文化を発展させます。
 

 
 江戸時代へ
千六百三年、秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して権力を握り江戸に幕府を開き、大坂の役で豊臣氏を滅ぼしました。
この後幕府は、十七世紀半ばまでに武家諸法度の発布し参勤交代の義務化を行い有力大名の改易などを通して、
諸大名との主従制を確固たるものとし、また朝廷統制を強め、幕府官僚機構を整備し、
鎖国を完了し安定した政治と文化を作って行きます。
 
 
 
 此処までを現在の高校教育での歴史として、要約を終わります。
最後の戦国期から江戸へは私が書くまでもなく良く知られていますので、
年表を辿るまでも無くウキペディアを参照に簡潔に済ませました。
また、江戸期以降は資料も豊富でその時々の事象を、見地を変えて比較ではなく掘り下げることをして行きたいと思っています。
ここまでの記事で、年代によって少々こだわって書き込んだ所や、簡素過ぎる所も有りますが
次回からの私的見地での歴史記事の絡みも有り、あえての要約の積もりで書いて居ます。
気が付いたら要約密度がバラバラだったと言う方が多いのですが・・・
こうして書き出して見ますと、三十年ほど前の歴史観と随分変化も見られます
しかしその歴史認識のスタンスは、西洋的理論展開による分析史学的立場を全く変えていません。
私は、上から目線の分析史学を否定するのではなく、それも一つの歴史観だと捉え多面的史観の確立を望みたいのです。
でないと日本の歴史に於けるその時々の人々の暮らしと風景は感じる事が出来ません。
これは、過去に共産主義が一時期、民衆の為のものとして広がりを見せたにも係わらず受け入れられず衰退していった理由でもあり、
西洋的理論展開と言う上から目線による主義主張をもって民衆を捉えていたと同じ意味を持ちます。
そして、
日本人には共認とも呼ばれる独特の認識の共有感とともに、この「意味」は価値観・芸術観・人生観にも大きく作用します。
 
 では、次回より歴史の事象を中心に、これらの事を少しでも具体的に顕わにし書いて行ければと思っています。
























 
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