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戯言による『失なわれた感性』への諸々なる思考と日誌
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前回の記事でイスラム教の始まりを書きましたが、イスラム教も聖書を基点としていますので旧約聖書の世界を歴史的にイスラム教の広がりの前に概要をまとめて行きたいと思います。
日本で言うアラブ人とはアラビア半島を中心とする人々がイスラム教徒でありその人々を示すかのように捉えられているようですが、アラブ人とは単一民族ではなくメソポタミア(ティグリス・ユーフラテス川の沖積地)を起源とするアラビア語圏ないしアラビア半島・西アジア・北アフリカの人々ですが宗教も人種も多様なのだと認識しておかなくてはなりません。
旧約聖書の舞台はメソポタミア草創期のシュメール(紀元前3100年頃より栄えた文明)を含むティグリス・ユーフラテス地方から始まりバビロニア地方からシリア、エジプトそしてエルサレムへと続いて行きます(エデンの園はティグリス・ユーフラテス辺りとの推測も有ります)
メソポタミア文明初期、シュメール人が農耕・畜産・文字・鉄器などの基礎を発明し都市文明を築いたとされるが出自足跡は不明。
 
聖書とは旧約聖書と新約聖書が有り神の啓示であり契約の書なのです。
人類はアダムとイヴに始まり各地へ広がり唯一なる神を信じるノアとノアの箱舟の期を経た種族の一人、アブラハムとの間に交わされた契約が基となりユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神との「神との契約の宗教」であり、「アブラハムの宗教」とも言われます。
聖書にはアブラハムにイサクとイシュマイルと言う息子が居りユダヤ教ではユダヤ人はイサクの息子イスラエル(ヤコブ)の子孫であり、アラブ人はイシュマエルの子であるとコーランに記されています。
旧約聖書の旧約とは神とアブラハムとの契約でありアブラハムとその子孫すべてと子孫と交わり神を崇め信じる者を死後ではなくこの世の終わりに救いの地(天国)へ召すと言うものであり、ユダヤ教の教義は神がアブラハムの子孫であるモーセを通じイスラエルの民へ与えられたと十戒を教義の基とする宗教です。
キリスト教はイエスキリストを神の子であり救いの主であると信じ、主である父なる神と、聖霊との「三位一体」である唯一なる神と信じる者は、アブラハムの血によらなくても救われ死後に天へ至ると言う神との新たな契約であり新約聖書と旧約聖書とを正典とする宗教です。
イスラム教はイエスとモーゼらユダヤの預言者たちを神によって選ばれ神の言葉を伝える使命を帯びた者であると認め、ムハンマドを最高最後の預言者であるとします。
イスラム教は神がムハンマドを通して下された預言の言葉をまとめたコーランがもっとも忠実に神の言葉を伝える啓典であるとするので旧約聖書・新約聖書を認める程度に留まるのです。
ユダヤ教はアブラハムに連なるユダヤ人とユダヤ人と交わる者が神を信じ十戒を基とする旧約聖書による律法を行なう事で救われるとし、キリスト教は三位一体の原理により新旧約聖書を解しイエスキリストを通じて神を信じる者は全て救われるとし、イスラム教は唯一なる神を信じてアラブ語で書かれたコーランに示された生き方を全うする(帰依する)者は全て救われるとされると理解します。
 
アブラハムの時代とは、発掘により紀元前2000年頃の粘土板に刻まれたシュメール王の系譜などでメソポタミア文明に存在したウルの古代都市時代であると推定されています。
ウルの古代都市はアブラハムの出生の地であり、アブラハムはウルの地を出てハラン(トルコ南部で発掘される)へ移住しました。
ウルを含むシュメールはバビロニアに征服されその後バビロニアもアッシリアに征服されましたがネブカデネザル王によりバビロニア帝国として復活します。このバビロニア帝国の神殿があのジクラッド神殿です。
アブラハムの子孫であるイスラエルの民(ユダヤ人)は奴隷となっていたエジプトをモーセによって脱出しパレスチナ人と敵対しながらソロモン王国時代やダビデ王時代を経てエルサレムに王国を築き南北に分裂しユダ王国とイスラエル王国となってしまい、北のイスラエル王国はアッシリアに敗れユダ王国もバビロニア帝国に敗れ捕虜となり、その後バビロニア帝国はパレスチナ人をも征服してしまいます。
ソロモン王時代の城壁やダビデ王時代の宮殿も近代に発掘され年代が明らかになりアブラハム以後の旧約聖書の記述は考古学的なものとなっていますが、聖書に記述されている年代累積と考古学による実年代は必ずしも一致はしません(特にアブラハム以前)、よって年代は記さずにおきました。
紀元前538年ペルシャ王国によってバビロニア帝国が滅亡しイスラエルの民は解放され分散しパレスチナの民となります。
紀元前334年パレスチナ地域はマケドニアの支配下となりますがその後マケドニアはシリアの支配下となります。
紀元前134年マカバイ戦争によりイスラエル民族の自治権を取り戻しローマ帝国の属州となり、100数十年後エルサレム近郊ナザレにてイエスキリストの誕生となります。
このように旧約聖書はアブラハム以降だけでも二千数百年以上の歴史が含まれアブラハムの子イサクからなるイスラエルの民の書とも言えます。
 
キリスト以後ムハンマドへは次回に。
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日本ではアラビア人、アラブ人、イスラム人、イスラム教徒、などの言葉が時代によって作られ印象的に使われている、アラビア人とは人種ではなくアラビア半島に住む人々を指し、アラブ人とは西アジアや北アフリカとアラビア半島を含むアラブ諸国の人々を形容し、その諸国に住むイスラム教徒(ムスリム)をイスラム人と呼び、これらの呼称に東アジアのイスラム教徒を含めてイスラム教徒と地域や国を含めて称したりまったく根拠無く口にしているようです。
私自身、多民族国家や集団を総称する言葉を学びもっと気を配りながら使って行きたいと思います。
 
ではイスラム教とはどのようなものかを書き出しその宗教に少しでも認識を持って近づきたいと思う。(イスラムに教を付けるのは本来の意味からは変なのですがイスラム教と言う日本語として使います)
 
イスラム教とはアラビア半島のヒジャーズ地方のメッカ近郊に生まれ育ったムハンマド(モハメッド)が7世紀初頭(日本では飛鳥時代、聖徳太子や法隆寺建立の時期)に天使ガブリエルにより預言者として託され始まった宗教となっている。
この「預言者として託された宗教」と言うところが他の宗教始祖にある神からの啓示や教えから成る点と異なる。
ムハンマドの生まれた6世紀終わりのアラブ地域は国家と言える権力も政治体制も無く隊商を中心とする多くの小部族が協調し対立していました。大小幾つかの街は貿易と商業によって点在しキリスト教やユダヤ教が混沌とする多神教の占める土地柄であったようです。
この様な当時のアラブ社会状況と文化情景が大きく影響しイスラム教の根底をなしていると思える。
ムハンマドはクライシュ族のバヌーハーシム家に生まれましたがすでに父は無く(子の顔を見る事無く亡くなったムハンマドの父はメッカの中心となる多神教神殿カーバの鍵を預かる司祭の一統バヌーハーシム家の者)母も6歳の時亡くなり幼く孤児となり親類縁者のもとを貧しく転変しながら正直者とあだ名され育ち隊商として成人し、彼は25歳で15歳年上の未亡人となったが財を持ち隊商を雇うハディーシャに見初められ家庭を得ました。
文字を教わる境遇に無く知識人ではなかったが実直で由緒あるバヌーハーシム家の血を引く者として隊商を良くまとめハディーシャを深く愛し温厚な夫であり、時に社会の貧富の差を痛み快楽に落ちる人々に嘆きヒラー山と言う山の洞窟で瞑想の時を持つ生活をしていたようです。
40歳の時に洞窟で瞑想中、突如天使の様とも悪霊ともつかぬものが現れ「朗誦せよ」と迫られ恐怖のあまり声を出すと見知らぬ意味の言葉を朗誦していたそうです。
朗誦とは(ろうしょう)声高らかに謡うように読むことで、この朗誦があのコーランを謡うような形の基ではないかと思う。
当時メッカなどでは詩を街中で文人が朗誦する文化が有りその者は敬意を受けていたようです。
ムハンマドは最初恐怖のあまり家へ逃げ帰り震えていました、このシャーマンの様な体験を幾度か受け自分は狂気したのではないかと苦しみに耐えられずハディーシャに告白すると、ハディーシャは愛を持って受け入れ信頼するキリスト系アラブ人の従兄弟に相談しました。ムハンマドは従兄弟の解釈によって天使とも悪霊とも解らない者は聖書にある天使ガブリエルであり朗誦の言葉は「神」が直接与えられた「預言」だと知り、その後もシャーマン的体験はムハンマドが死ぬまで人々の眼前でも続き神が「新しい宗教」を起こすよう命じられた事も知ったそうです。
ハディーシャの愛が無ければイスラム教は生まれなかったかもしれませし、ハディーシャの死後ムハンマドは変容して行ったかのように私には感じます。
この預言のシステムがイスラムの裡で、「神」がユダヤ教やキリスト教と同じ唯一神でありその「預言」は唯一神からの原始ユダヤ教キリスト教を経て第三番目の完結した宗教であると同時に、人間が授かった最終結実したる教えとして認識されたのではないかと私は考えます。
数々の預言において神がムハンマドの肉体を通じアラビア語で直接話されたと成っている事で、その言葉をアラビア語で書き集められたものがコーランです。
ですから厳密には翻訳された物はコーランとならず、アラビア語に通じていなくてはムスリム(イスラム信者)とはならない事に注意しなくてはいけないと思います。
現在インドネシアでイスラム教徒人口は1億7000万人以上と言われ世界最大のムスリム国でありインドネシア語を公用語としているが多種多様な言語が日常語として使われている、ここの所の現状を今後見て行きたいと思う。
この「預言」よりムハンマドの布教となるのですが、先ず受け入れてくれたハディーシャと従兄弟と共に朗誦の言葉の収集と理解により宗教的実体へと形作られ、布教は親族への個人的対面から始まって最初にアブーバルクが加わったようです
ここら辺りまでがムハンマド個人の伝承として書き残されたものらしいです。
その後、親族への布教からから街の人々へとメディナへ移るまで12年の布教活動が行われましたが親友のアブーバクルら70人ほどの信者となるのみで大きな進展は得られず逆に迫害の対象となり弾圧され命の危険に曝されるまでになり西暦619年ハディーシャが亡くなります。
当時メッカは各地域から商品や文化が集まる砂漠のオアシスとして栄え多彩な宗教を持った交易商人達の快楽と利得の街でした。
ムハンマドが発する神の教え「預言」は人の完全な平等を掲げ快楽のむさぼりを禁じ、利益を貧しい者に分け与える分配を求め、神は唯一神のみであり一切の偶像崇拝をしてはならないと言うものでした。
故に街からも部族からも敵視され迫害を受け、ムハンマドの預言には呪いとも取れる言葉が残されています。
ムハンマドとアブーバルクはメッカを70人ほどの信者と共に逃げ出しメッカ北方300キロの道を経て西暦622年メディナへ追われ移住し信者集団としてコミューンを作り生活し出しました。
苦難を強いられても離脱しなかった70人の信者はこの時代と街の状況から道徳を心得た優秀な人々ではなかったかと想像出来ます、そしてこの移住によってイスラム共同体ウンマの基礎となったのでしょう。
イスラム教ではこのメディナへの移住をイスラム教の起源ヒジュラとしてイスラム暦を刻んでいます。
このメディナでムハンマドのウンマ(コミューン)は隊商同士利害対立をしていた隊商達に受け入れられ大きく発展し強い勢力となり武力をも持ちます、それはメッカからの隊商やユダヤ人との摩擦を助長し、事あるごとの「預言」に導かれ戦い勝利して行きます。この頃ムハンマドは勇猛な戦士としても名が知れて行きアブーバルクの娘9歳と結婚します。
そして遂にはメディナを収め西暦630年メッカをも占領しアラビア半島を翌年西暦631年イスラム教によって統一しますが西暦632年ムハンマドはメディナで病没します。
ムハンマドは最初の妻ハディーシャの死後アイーシャをはじめ10人ほどの妻を持つようになっていました。
そしてムハンマドの死去の後イスラム教はアブーバルクを筆頭に地中海沿岸諸国から中央アジア、西アジアと勢力を巨大化させて行きます。
 
次は世界史的にイスラム勢力を見て行こうと思います。




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 しばらくの間、断続的になると思いますがイスラムの文化社会について
思考をまとめる為に自分なりに書いて行きたいと思います。
 
2009年度調べ、日本にはイスラムモスクが50数件有るそうです。
写真は渋谷に在る東京モスク(東京ジャーミィ)
全国に有るモスクの大多数は小ぶりなビルに簡易的な装飾を施した物や
それとは判らないプレハブの建物が殆んどのようです
写真にも有るように白と黒の市松模様や建物上部の特徴的ドーム等は正教会の建物にも見られ、ビザンチン様式としての年代的に先に確立したものか
イスラム様式の流入であるのかも私の見るべき課題としてあります。
又、ムスリム(イスラム教徒)は12億~13億とも言われ世界人口の二割を占め
キリスト教は20億と言ったところ、次いでヒンドゥ8億、仏教儒教が共に3億~4億と言われます。
 
どうして、イスラム文化社会を見ようと思うのか。
イスラム文化社会は私を含め一般的に無知といって良い程の宗教文化であり、それは広大な文化圏なのです
「何故無知」なのかの「何故」を知ることで
私の裡に有る日本人としてのアイデンティティを認識出来るよう少しでも近づけるのではと言う試みのためです
実は、私や日本人の多くの人がそうだと思うのですが
仏教も儒教も神道もキリスト教も何なのか、その何か解らない歴史の上に私たちが生きていて
漠然とした印象だけでその実体を知らないのではないかと思うのです
私たちは「海外から見た日本は」とか言う番組や「日本人とは」と言う本を好みます
しかしその殆どが「他人からどのように見えるか」と自分の事ばかりが先行していて
実像を捉えることが出来ません
(私には音楽や美術もその傾向が大変強く感じられそれが日本の物真似文化となっている様に思えます)
自身のアイデンティティを見詰めなおすには他者を知らなければ見えてこないものです。
アイデンティティと言う言葉は哲学的な意味と歴史文化による属性として捉え
アイデンティティとは他者と対立させ見分ける事での区別認識ですから
他者に写る自分の姿や己自身の裡だけを見ていても解らないものが多く有るのではないでしょうか
 
私たちは欧米からの情報によって欧米が捉えた印象の又聞きの様にイスラム社会や文化圏について漠然としてみているに過ぎないように思えます
又、911以後の報道や西側諸国の対応を見て私たちの印象は変化しています
日本で数十年前までイスラム圏の文化の象徴のひとつとしてアラビアンナイトが有りました
今は随分とその存在は薄くなっているようです。
そのアラビアンナイトの事でさえ元はインドの口承芸能が平民文化の一部として伝わり文字化され、18世紀初頭にフランス語に翻訳され広まり内容も変化したものが日本に伝わったものであり 
私たちが見たものはヨーロッパから見たイスラム文化への印象により変容したイスラム文化だと言えるのです
ならば私たちが私たちの姿として見ている他者の目に写ったものの実像は何なのか
印象の逆輸入によって自分を見ている面があるならば、その認識を確かめることで実像と言うアイデンティティを知ることが出来ないだろうか、それが出発点なのです。

特別イスラムで無ければならない訳ではないのですが
知らないと言うことは既成概念に捉われないと言う大きな利点があります。
先ず取っ掛かりとして、欧米の人々がイスラム文化社会をどのように捉えているかを知ることで私たちが日本を見る目の見方も知る手掛かりに出来るかもしれません
それらが日本人のアイデンティティ認識へ近づく手立てとなればと思うのです
上記の様な目でイスラム文化社会から見詰め始めてみようと思います。

それではイスラム教とはを知る事が最初となります。




 


昨年11月だったかNHKで放映された「地球ドラマチック」での内容
以前よりシャーマニズムによるものだろうとされてきたラスコー洞窟の壁画は
フランスの天文考古学者により1万5千年前の天体をクロマニョン人によって
写された星座だとこれまでの学説に一石が投じられたと言う内容だった

「何らかの方法で恒星の配置を写しそこに絵を描いた」
これはその方法を示す物的資料が発掘されない限り学術的には認められないでしょう
しかし、多くの考古学者はこの解釈を合理的だと認めて居ます
私も当時の人々が夜空を写しそこに彼らの大切な動物達を描いたものだと思います

私がこの番組で最も興味を引かれたのは
その説を唱えた学者が何故天体ではと感じたかと言うプロセスなのです
番組ではそこに焦点は当てられていませんでした

先月、上野の国立博物館特別展「国宝 土偶展」へ行き
素晴らしい土偶を眺め感嘆しながら、次に土器を見て居た時です
突然、縄文時代の人々の世界観、宗教的観念と言うようなものに包まれたかのように
彼らの生活や集団を感じその風景が眼前に浮かび上がった思いがしました
私は縄文土器、土偶などの埋没資料を相当数見たり触れて来ましたが
この感触は初めてのものでした
それはこれまで多くの資料や文献によって得て来た知的体験が
一瞬の内に結実し彼らの魂に触れたかのように感じた感触なのです
その後他の土偶や展示物を見、その前に立つとそれぞれの展示物に
個々の違った集団的世界観や宗教的観念に包まれ感じ見ることが出来たのです

このラスコーの壁画の前でフランスの天文考古学者も
同じような感覚から閃きを得たのではと思う様になりました
求め続ける感性は実体験と知的体験を多く得る事で育まれ
ある時対象を見出し感じ捕らえさせてくれる、そう思うのです

シャーマニズムと言う言葉の概念は現代人の作り上げたものです
非文明的、妄想や科学的無知のよるものと捉えていては何も感じる事は出来ないでしょう
科学的に物事を捉えるとは科学的手段を用いる事で
手段を信仰していては見えて来るはずのものも、感じる事が出来ないのです




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プロフィール
HN:
ちょきんぎょ
性別:
男性
自己紹介:
name  :  諏訪 淳
address : 神奈川県足柄上郡

mail : tyokinngyo77yahoo.co.jp
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