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戯言による『失なわれた感性』への諸々なる思考と日誌
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北村は遠野にて見聞きし
老いてもなお心に残る情景として現実のものとして蘇って来るのだ。

「緑深き山々、谷の奥に入りても山人は住めり」

その栃内村和野の佐々木嘉兵衛は今も七十余にて存命せり
この翁の若かりし頃、男は猟をして山奥に入り生業としていた時代であった。























北村は遠野にて見聞きし
老いてもなお心に残る情景として現実のものとして蘇って来るのだ。

「緑深き山々、谷の奥に入りても山人は住めり」

その栃内村和野の佐々木嘉兵衛は今も七十余にて存命せり
この翁の若かりし頃、男は猟をして山奥に入り生業としていた時代であった。














北村は遠野にて見聞きし
老いてもなお心に残る情景として現実のものとして蘇って来るのだ。

「緑深き山々、谷の奥に入りても山人は住めり」

その栃内村和野の佐々木嘉兵衛は今も七十余にて存命せり
この翁の若かりし頃、男は猟をして山奥に入り生業としていた時代であった。













北村は遠野にて見聞きし
老いてもなお心に残る情景として現実のものとして蘇って来るのだ。

「緑深き山々、谷の奥に入りても山人は住めり」

その栃内村和野の佐々木嘉兵衛は今も七十余にて存命せり
この翁の若かりし頃、男は猟をして山奥に入り生業としていた時代であった。









  
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少しサボっていたら一月も経ってしまった
 
「ジハード」この言葉を聞くと「聖戦」と連想してしまう
連想と言うよりジハードとは殆どの人が聖戦と言う意味だと思っている
私も「ジハード」と言う言葉を初めて聞いたのはおそらく湾岸戦争あたりのTVから「聖戦」と言う意味を含んだ言葉と報道から認識したと思う。
その時、同時に白人とアラブ人と言う人種的図式も報道から学んだように思える。
これらは無知と無関心から成る差別そのもの、とんでもない認識でと言っていいでしょう。
 
白人とアラブ人とは一体何を指すのか、人種とは一体何なのかしっかり認識をしていないで使っている言葉ではないでしょうか
実際人類学的にもそのような分類は全く出来ず、人種と言う言葉は何も意味の無い差別用語と言って良いでしょう、肌の色、髪の色や身体的特徴等から白人、黄色人種、黒人などと言う言葉は西欧諸国の優位性を唱えるために中世以降作られた言葉です。
現在はヒトゲノム解析によってこれらの人種と言う概念は完全に葬り去られているのについ最近まで報道の文字にこれらの文字が見られました。
 
ジハードとはイスラムでの信仰的努力と言う意味です、確かにテロを行う過激派の声明にジハードという言葉が使われていましたが問題はその言葉の背景を全く伝えず、イスラム信仰の象徴の言葉かのように「ジハード=聖戦」としてしまったのは、陰にもくろむ者の姿があるのを感じます。
しかし、それをそのまま報道し、また鵜呑みにする私たちの愚かさを自覚しなければなりません。
毎日五回決まった時刻にメッカの方向に膝をつき額を地つけて祈るのも、ラマダーンと言うイスラム暦年の年一度の日出から日入りまでの絶食も「信仰的努力=ジハード」なのです。
不条理にも外敵が戦いを挑んで来たら剣を手に戦いイスラムの教えを守るのも「信仰的努力=ジハード」でありコーランにもそのように書かれています、過激派の考え方は物欲経済に没しアメリカや西欧に追従する者はイスラム社会を侵略する外敵と見なすという意味でジハードと言っているのです。
 
1991年、湾岸戦争の時にイラクはクエートを侵略しアメリカを中心とした国連の多国籍軍と戦争状態になりました、その時イラクはイスラエルにミサイル攻撃をしたのが報道されていました。しかしそのイラクの真意は報道されずだったと思います。
これは、単なるフセインの狂行ではなかったのを知っている人も少ないのではないでしょうか。
 
私達はこれらの事柄には大きな歴史的背景が有るのを知っておかなければ「目は開いているが何も見ようとしていない者」に成ってしまい、と同時に他人の言葉が何を意味し自分自身が何者なのかも解らない者となってしまいます。
 
話は飛びますが、
16世紀にスイス北西部のジュラ山脈の中腹にある小さな村ラショードフォンに宗教的迫害によって隣国より逃れてきた人々によって時計作りがもたらされ、ジュネーブやベルンとラショードフォンは時計産業の街となり、19世紀から20世紀前半まで世界の時計7割を生産し観光と共にスイスを支えて来ました。
1960年代に日本の時計がスイスの時計を脅かし1970年代には日本のクウォーツ技術によって大打撃を受け衰退しましたが、80年代にスウォッチを登場させそのおかげでスイス時計産業は持ち直し、現在では伝統産業として機械式高級時計はスイスの独壇場となっています。
私が注目するのはラショードフォンが伝統的かつ最新の機械式時計産業の街として世界遺産に登録されているほど伝統と美しさを保っていると言う事です。
日本にも産業として歴史は浅いが素晴らしい技術を持っていたはずでした、しかしその面影すらありませんし、時計の街なども有りません。
何か日本での技術は経済産業であり文化ではないと意味しているようです。
文化は生活です、技術は人と人の関わりによって生きる文化であり生活の姿のはずです。
 
ジハードや人種と言う言葉の意味を知ろうともせず、文化として技術を生かせない日本、表面だけを外国から輸入し憧れる日本人の姿、音楽も絵画も文化と成り得ない日本の姿が見えて来ます。
日本の街で美しいと言える街はどこかに有るのでしょうか、人と人の関係によって生きる街の姿は意図せずとも、海や空や緑と言う自然に調和と対立を求めある種の緊張感を生む美しい街が出来て行きます、そのような街は現代の日本には在りません。


タイトルと内容、無茶無茶ですね^^





Image086.jpg









昨年から下書きだけでそのままだった絵を描き始めた

まともに動けない時に病院に車を出してくれ送り迎えしてくれた人へ
私の息子ぐらいの歳なのに・・・
想いだけでも届けられたらと描いているが

背景にスーラ風の絵を描いてみたのだが、それに引き摺られてか
ちょっとこの先が今のところ見えてこないでいる。
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ヨーロッパの古代とはギリシャ・ローマ時代の事を一般に指しますが殆んどの日本人はギリシャ人によるギリシャ文明とイタリア人によるローマ帝国以外の知識は無く、古代から近代までのヨーロッパの歴史を捉えるには日本列島の様なひとまとめに見る事は出来ず人種と種族は地域を流動的に移動し支配しているにもかかわらずヨーロッパの各国がそれぞれ単一か少種の人種・種族で構成され文化を持っているかの様な感を持ってしまいがちです。
しかし日本列島の新石器時代から縄文時代だけを見ても人種のつながりは薄く、また縄文人とひとまとめにくくって称しますが多くの種族による混血で成り立っており弥生以降の渡来人によって現在日本文化と呼んでいる「日本文化」が形成された事を、認識を改め他の大陸の人種的流入と混濁による歴史を学び自分達の成り立ちに目を向けなければ日本人の特殊性と言う「優位性神話」を作り上げる事に成りかねません。
ルネッサンス期のヨーロッパでは古代をギリシャ・ローマ時代、近代をルネッサンス以降、中世をその間の時代と指す言葉として作られ古代以前は謎であり、「優位性神話」によって古代以前アフリカ大陸には白人による原始王国時代が有ったと考えました、この観念が黒人に歴史は無くアフリカを暗黒大陸と称し大航海時代の搾取貿易と共に300年間もの奴隷制度へ拍車をかけ1億人以上とも言われる命の犠牲へ至る事のひとつの要因と成ったようです。
無関心や間違った認識は自らに都合の良い空想的概念を与えてしまいます。
 
古代ヨーロッパ以前、地中海東方沿岸諸島にエジプト・メソポタミア文明を持ったアナトリア(現在のトルコ)の民族によるキクラデス・トロイヤ・クレタ等のエーゲ文明が起こり、バルカン半島南端のペロポネソス半島に紀元前1500年頃発したミケーネ文明の残した影響により複数の商易都市(ポリス)が集合体となってギリシャ文明が形成されたのが紀元前700年頃、そのギリシャ人(現在のギリシャ人ではなくアナトリア系人種)は地中海沿岸各地で活躍しその文明は多くの地域に影響を与え、石器時代から幾つもの種族が住んでいたイタリア半島にある小さな村のひとつが、半島南部から入ってきたギリシャ文化によってローマ帝国へと巨大化してアフリカ北部やエジプトを始め地中海沿岸からブリテン島へまで達しヨーロッパ大陸の大半を飲み込み、各地に帝国文明化した人民と共に富と享楽の都市を築きイエスキリストと弟子達による原始キリスト教が衰退し古代カトリックと言えるキリスト教がローマ帝国の国教とされ多大な権力となって行きました。その事もありギリシャで発達した文学・哲学・科学等はローマ時代のヨーロッパへ継承されることは無かったようです。
その後このローマ帝国の巨大化を原因とする衰退や分裂と共にイスラム勢力の支配とキリスト教による攻防の時代と成り民族や人種の入れ替わりや大移動と混入がヨーロッパ全土を飲み込み中世ヨーロッパと呼ばれる人種と民族による大小多数の権力と富と武力による諸王国と文化的支配となるキリスト教(カトリック)の富と権威とによる地方都市の時代へ変化して行きヨーロッパ文化がキリスト教文化となり、農村は3世紀の終りエジプトに始まった原始キリスト教の保持を目指す修道院がヨーロッパに広がり、中世には修道院による農村の開墾が行われ農耕の生産力が飛躍的に高まります。
ヨーロッパにギリシャの文学・哲学・科学等が広まるのは8世紀から13世紀まで続いたイスラム支配下のイベリア半島(スペイン・ポルトガル)をキリスト教勢力が奪還し、そこに残されたイスラムがギリシャを支配する事で翻訳された文学・哲学・科学等を知るに至り中世ヨーロッパ文化の基盤となってからでした。
 
このようにヨーロッパとオリエントの文化の関係はひとつの流れと言っても良い位に深く同時に民族は多種多様ですがひとつ疑問が浮かびます、ギリシャ・ローマ文明の歴史以外にヨーロッパ大陸に歴史文明は無く原始的農耕遊牧民族によるささいな集落しか存続していなかったのでしょうか。
この原始的農耕遊牧自体もメソポタミアから始まったオリエント文明とその人々の流入によってヨーロッパ各地の石器文化を持った人々や集落に伝播し広がったものだけなのでしょうか。(土器文化はヨーロッパでは僅か一部地域にしか見られません)
現在、近年までヨーロッパ文明はオリエントから始まったとされて来ましたがヨーロッパはオリエント文明のみにより開けて来たのだろうかと言う疑問に対する考古学研究がなされているところです。



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先日、国立新美術館へ行きましたがその時思い出した事を書きます。(記事とは関係有りませんが、国立新美術館はこれまで幾度か訪れました、しかしあまり好きにはなれません、建物の建築デザインにデザイナー自身の自己主張を強く与え過ぎるのとイベント会場の様な構造が無機質で心の調和がとれません)
 
1年程前でしょうか此処へピカソ展を見に来て作品を見ながら1日過ごした時の感じた事を思い出しました、後日また訪れたのですが、その時も今回と同じように各美大の卒展が催されていて忘れていた想いが蘇ったのでした。
その蘇ったものとは写真のピカソの「雌山羊」のブロンズ像です。
この作品を実際に見たのはその時が初めてで、何度もその作品の前で立ち止まりじっと見詰めていましたが、何か壁を隔てたような、感触に霧がかかったような、その様な僅かな「違和感」を覚えたのを思い出したのです。
それで昨日、この作品についてネットで調べてみたら赤茶けた石膏のオリジナルを写した写真が出て来たのです。

yagi012.jpg




 
 
ピカソはブロンズの「雌山羊」を作ったのではなく空き缶や木切れやシュロの葉や壺を集め石膏の「雌山羊」を作ったのです。
この写真にはピカソの手から生まれた感覚が形となっているのが直に伝わってきます。
ピカソの作品は構成から色使いやその細部に至るまでの全てに精神によって完璧にコントロールされて生まれて来たものばかりなのです、それが昨年私の感じた「違和感」とは、そのコントロールが欠けていた事からの感触だったのでしょう。
型を取ってブロンズ像を何体か製造したのはピカソの意思だったのか他の者によるのかは解りませんが、少なくともこのオリジナルの「雌山羊」はブロンズ像のための形とは私にはどうしても思えません。
 
yagi013.JPG








 
こうして写真だけですが比べて見ると、感じるものが相当違っているのではないでしょうか、ブロンズの「雌山羊」は壁の向こうのピカソの姿であり霧に霞んだピカソの姿の様でも有ります。
これはまるで私たちの裡で日常に「感じる」事を「言葉」で捉え直し認識する事でオリジナルの「感じる」を認識出来なくなっているかのようです。
 
前回より少し間が空きましたが、紀元前のメソポタミアからエラム、アーリア人の移動よりペルシャ帝国へ至るまでの各王朝、ギリシャ帝国やローマ帝国による支配と範囲の変化など大変複雑でその全容を捉えるのは大変難しく確立されていない面もあります。
ただメソポタミア文明から歴史の流れの中で旧約聖書時代の古代ユダヤ教(キリスト教)の他に各偶像崇拝と共にゾロアスター教があり、イスラム教の台頭により数千年続いたゾロアスター教やその他の偶像崇拝は消滅して行ったのでした。
イエスキリストの時代、アラビア半島はこれと言って王朝は出現せず、又他国の支配も大きくは及ばず交易によって生計を立てる部族がそれぞれの偶像崇拝をしながらオアシスの街を造っていた、ではその周辺と世界はどのようだったのでしょう。
 
エジプト、多種多様な神話信仰と共に3000年近く続いたエジプト王朝も紀元前525年にペルシャに征服され紀元前332年にはギリシャ帝国に征服され、その後一旦は復興するのですが紀元前30年にローマ帝国に支配されながらエジプト文化宗教を継承しつつもイスラム帝国に征服されるまでその支配は続きました。
 
インドではインダス文明が紀元前2600年頃栄え紀元前1500年頃ガンジス川流域に移住しバラモン教を基にカースト制度が興りヒンドゥ教となり、その反カースト制度として紀元前500年頃インド北部ネパール国境近くに釈迦族の王子として生まれたブッダによりヒンドゥ教の世界観を基にした実社会を道徳的に解する仏教が生まれ広がり、その後変容して行きました。そして王朝を次々に1000年以上継承して行きますが10世頃イスラム王朝の支配を受け一旦はイスラム教の優勢となりますがカースト制は根強くヒンドゥ教優勢となり現在のインドとパキスタンとの関係へと繋がります。そしてこのイスラムの波はカンボジアを経てインドネシアへと伝わって行きます。
 
中国では秦の始皇帝の後、劉邦により興された前漢の晩期にあたり儒教が政治の基盤として用いられていた時代であり、朝鮮半島北部ベトナム南部までもが中国の権力と文化に影響され出した時代でも有ります、その後の後漢時代・三国時代と仏教が中央アジアから交易商人と共に伝わり広がって行き隋の時代に仏教は儒教に取って代わり民衆に定着し治国政策として確立し唐・宋・元・明・清と変遷して中国共産党時代の弾圧へと流れて行きます。(その間中央アジアを経てイスラム今日は相当流入していたようで歴史上世界最大の木造船、宝船「ほうせん」で有名な政権に最も近かった宦官である鄭和の父親はイスラム教徒で鄭和自身もアラブ系の顔立ちをしていたそうですし、現在も相当数のムスリムが中国にいます)
 
日本列島は紀元には、西日本から東北へと弥生時代に入り神道によって民衆を束ねる渡来系民族による権力文化へと進んで行き縄文の小集落文化が消えて行きました、部族統治から大和朝廷中心の統治へと進み、飛鳥・白鳳・天平と中国に習い、朝鮮半島から儒教が学問として伝わるが多くは定着はせず、ほぼ同時に伝来した仏教は曽我氏物部氏を経て政治基盤としながら中央集権制を確立して行き、奈良時代には民衆レベルで迷信的信仰として西日本を中心に広まり、政治中央では寺や僧たちの権力が乱立し統制のために中国の高僧である鑑真を必要とするのです。
以後平安時代、仏教は日本仏教として政治力に特化し武力勢力となるものなど変容し多彩な宗派へと分かれ鎌倉時代を経て民衆仏教として淘汰されて行きますが、江戸時代には徳川幕府の檀家政策を基に地域に根強く繁栄し寺は豪商まがいに富を持って大名も動かすまでになって行きました。
しかし江戸時代の農民の仏教とは生活の中に、幕府によって宗派を問わず強制され寺の檀家として戸籍を持たなくてはならず神社と寺の存在は生活風習として混ざり合い独特の世界観を形成して行ったのです。
 
 ヨーロッパは次回に

 
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昨日、日本人起源を更新世から弥生にかけて(約4000年)検証すると題した人類学公開シンポジュウムを聴講して来ました
考古学のシンポジュウムには幾度か足を運んだことがあるのですが
人類学のシンポジュウムは初めてでした。(開催は5~6年に1回程度かな?)
200名収容の会場に300名以上が来場し受け付けロビーにまであふれるといった状態で日本人起源に対する関心度の高さを感じさせるものでしたが、考古学系でもそうなのですが人類学系も関心を寄せる人の年齢が非常に高くもう少し年齢幅が有っても良いのではと少し残念でした。(10数人10代の学生が居たのはちょっと嬉しいが中間層は皆無)
 
公演内容は私の把握予想していたものではありましたが、昨年発掘された後期旧石器時代の人骨の分析によって旧石器の列島人が縄文人の祖先である可能性が一段と薄くなったと言う報告に、私の私的認識に対し疑問点を大きくさせた事が一番の収穫となりました。
いずれにせよ発掘が有ってこその分析探求ですので、列島本土で奇跡的にでも旧石器時代の資料と足りうる浜北人骨以上の発掘がある事を望むばかりです、期待していた縄文から弥生に至る数百年間と言う埋蔵資料の空白期間が今だ進展なしと言う報告も、致し方の無い事とは解ってはいるのですが少し寂しい思いを覚えました、これらは考古学に関わる人の発掘成果に更なる活躍と発展を期待し人類学の分析など技術的学術的進展を応援するものです。
又、CTスキャンとデジタル解析により頭骨の欠損部分の修復および精密な実模型が可能となり頭骨内(脳)の模型の作成が出来るようになった事に付いて、港川人の脳模型と現代人の脳模型との比較資料で大脳皮質と小脳の比率が現代人の方の小脳の比率が大きく見えたのですが(個体差なのかもしれません)脳科学的見聞に問うた報告が無かったのは疑問点として残りました。
 
しかし考古学と人類学の連携が強まり古代の実態が強烈なスピードで浮き彫りにされているのは頼もしく嬉しくありました、あとちょっと面白いと思ったのは、旧石器時代を称するに先土器時代という言葉は聞かれず、頭部の骨(頭蓋骨)を人類学では頭骨(とうこつ)と呼び考古学では頭蓋(ずがい)と呼ぶのは面白いなあと、明治に始まった学問の分化を感じさせたことでした。

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前回の記事でイスラム教の始まりを書きましたが、イスラム教も聖書を基点としていますので旧約聖書の世界を歴史的にイスラム教の広がりの前に概要をまとめて行きたいと思います。
日本で言うアラブ人とはアラビア半島を中心とする人々がイスラム教徒でありその人々を示すかのように捉えられているようですが、アラブ人とは単一民族ではなくメソポタミア(ティグリス・ユーフラテス川の沖積地)を起源とするアラビア語圏ないしアラビア半島・西アジア・北アフリカの人々ですが宗教も人種も多様なのだと認識しておかなくてはなりません。
旧約聖書の舞台はメソポタミア草創期のシュメール(紀元前3100年頃より栄えた文明)を含むティグリス・ユーフラテス地方から始まりバビロニア地方からシリア、エジプトそしてエルサレムへと続いて行きます(エデンの園はティグリス・ユーフラテス辺りとの推測も有ります)
メソポタミア文明初期、シュメール人が農耕・畜産・文字・鉄器などの基礎を発明し都市文明を築いたとされるが出自足跡は不明。
 
聖書とは旧約聖書と新約聖書が有り神の啓示であり契約の書なのです。
人類はアダムとイヴに始まり各地へ広がり唯一なる神を信じるノアとノアの箱舟の期を経た種族の一人、アブラハムとの間に交わされた契約が基となりユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神との「神との契約の宗教」であり、「アブラハムの宗教」とも言われます。
聖書にはアブラハムにイサクとイシュマイルと言う息子が居りユダヤ教ではユダヤ人はイサクの息子イスラエル(ヤコブ)の子孫であり、アラブ人はイシュマエルの子であるとコーランに記されています。
旧約聖書の旧約とは神とアブラハムとの契約でありアブラハムとその子孫すべてと子孫と交わり神を崇め信じる者を死後ではなくこの世の終わりに救いの地(天国)へ召すと言うものであり、ユダヤ教の教義は神がアブラハムの子孫であるモーセを通じイスラエルの民へ与えられたと十戒を教義の基とする宗教です。
キリスト教はイエスキリストを神の子であり救いの主であると信じ、主である父なる神と、聖霊との「三位一体」である唯一なる神と信じる者は、アブラハムの血によらなくても救われ死後に天へ至ると言う神との新たな契約であり新約聖書と旧約聖書とを正典とする宗教です。
イスラム教はイエスとモーゼらユダヤの預言者たちを神によって選ばれ神の言葉を伝える使命を帯びた者であると認め、ムハンマドを最高最後の預言者であるとします。
イスラム教は神がムハンマドを通して下された預言の言葉をまとめたコーランがもっとも忠実に神の言葉を伝える啓典であるとするので旧約聖書・新約聖書を認める程度に留まるのです。
ユダヤ教はアブラハムに連なるユダヤ人とユダヤ人と交わる者が神を信じ十戒を基とする旧約聖書による律法を行なう事で救われるとし、キリスト教は三位一体の原理により新旧約聖書を解しイエスキリストを通じて神を信じる者は全て救われるとし、イスラム教は唯一なる神を信じてアラブ語で書かれたコーランに示された生き方を全うする(帰依する)者は全て救われるとされると理解します。
 
アブラハムの時代とは、発掘により紀元前2000年頃の粘土板に刻まれたシュメール王の系譜などでメソポタミア文明に存在したウルの古代都市時代であると推定されています。
ウルの古代都市はアブラハムの出生の地であり、アブラハムはウルの地を出てハラン(トルコ南部で発掘される)へ移住しました。
ウルを含むシュメールはバビロニアに征服されその後バビロニアもアッシリアに征服されましたがネブカデネザル王によりバビロニア帝国として復活します。このバビロニア帝国の神殿があのジクラッド神殿です。
アブラハムの子孫であるイスラエルの民(ユダヤ人)は奴隷となっていたエジプトをモーセによって脱出しパレスチナ人と敵対しながらソロモン王国時代やダビデ王時代を経てエルサレムに王国を築き南北に分裂しユダ王国とイスラエル王国となってしまい、北のイスラエル王国はアッシリアに敗れユダ王国もバビロニア帝国に敗れ捕虜となり、その後バビロニア帝国はパレスチナ人をも征服してしまいます。
ソロモン王時代の城壁やダビデ王時代の宮殿も近代に発掘され年代が明らかになりアブラハム以後の旧約聖書の記述は考古学的なものとなっていますが、聖書に記述されている年代累積と考古学による実年代は必ずしも一致はしません(特にアブラハム以前)、よって年代は記さずにおきました。
紀元前538年ペルシャ王国によってバビロニア帝国が滅亡しイスラエルの民は解放され分散しパレスチナの民となります。
紀元前334年パレスチナ地域はマケドニアの支配下となりますがその後マケドニアはシリアの支配下となります。
紀元前134年マカバイ戦争によりイスラエル民族の自治権を取り戻しローマ帝国の属州となり、100数十年後エルサレム近郊ナザレにてイエスキリストの誕生となります。
このように旧約聖書はアブラハム以降だけでも二千数百年以上の歴史が含まれアブラハムの子イサクからなるイスラエルの民の書とも言えます。
 
キリスト以後ムハンマドへは次回に。
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日本ではアラビア人、アラブ人、イスラム人、イスラム教徒、などの言葉が時代によって作られ印象的に使われている、アラビア人とは人種ではなくアラビア半島に住む人々を指し、アラブ人とは西アジアや北アフリカとアラビア半島を含むアラブ諸国の人々を形容し、その諸国に住むイスラム教徒(ムスリム)をイスラム人と呼び、これらの呼称に東アジアのイスラム教徒を含めてイスラム教徒と地域や国を含めて称したりまったく根拠無く口にしているようです。
私自身、多民族国家や集団を総称する言葉を学びもっと気を配りながら使って行きたいと思います。
 
ではイスラム教とはどのようなものかを書き出しその宗教に少しでも認識を持って近づきたいと思う。(イスラムに教を付けるのは本来の意味からは変なのですがイスラム教と言う日本語として使います)
 
イスラム教とはアラビア半島のヒジャーズ地方のメッカ近郊に生まれ育ったムハンマド(モハメッド)が7世紀初頭(日本では飛鳥時代、聖徳太子や法隆寺建立の時期)に天使ガブリエルにより預言者として託され始まった宗教となっている。
この「預言者として託された宗教」と言うところが他の宗教始祖にある神からの啓示や教えから成る点と異なる。
ムハンマドの生まれた6世紀終わりのアラブ地域は国家と言える権力も政治体制も無く隊商を中心とする多くの小部族が協調し対立していました。大小幾つかの街は貿易と商業によって点在しキリスト教やユダヤ教が混沌とする多神教の占める土地柄であったようです。
この様な当時のアラブ社会状況と文化情景が大きく影響しイスラム教の根底をなしていると思える。
ムハンマドはクライシュ族のバヌーハーシム家に生まれましたがすでに父は無く(子の顔を見る事無く亡くなったムハンマドの父はメッカの中心となる多神教神殿カーバの鍵を預かる司祭の一統バヌーハーシム家の者)母も6歳の時亡くなり幼く孤児となり親類縁者のもとを貧しく転変しながら正直者とあだ名され育ち隊商として成人し、彼は25歳で15歳年上の未亡人となったが財を持ち隊商を雇うハディーシャに見初められ家庭を得ました。
文字を教わる境遇に無く知識人ではなかったが実直で由緒あるバヌーハーシム家の血を引く者として隊商を良くまとめハディーシャを深く愛し温厚な夫であり、時に社会の貧富の差を痛み快楽に落ちる人々に嘆きヒラー山と言う山の洞窟で瞑想の時を持つ生活をしていたようです。
40歳の時に洞窟で瞑想中、突如天使の様とも悪霊ともつかぬものが現れ「朗誦せよ」と迫られ恐怖のあまり声を出すと見知らぬ意味の言葉を朗誦していたそうです。
朗誦とは(ろうしょう)声高らかに謡うように読むことで、この朗誦があのコーランを謡うような形の基ではないかと思う。
当時メッカなどでは詩を街中で文人が朗誦する文化が有りその者は敬意を受けていたようです。
ムハンマドは最初恐怖のあまり家へ逃げ帰り震えていました、このシャーマンの様な体験を幾度か受け自分は狂気したのではないかと苦しみに耐えられずハディーシャに告白すると、ハディーシャは愛を持って受け入れ信頼するキリスト系アラブ人の従兄弟に相談しました。ムハンマドは従兄弟の解釈によって天使とも悪霊とも解らない者は聖書にある天使ガブリエルであり朗誦の言葉は「神」が直接与えられた「預言」だと知り、その後もシャーマン的体験はムハンマドが死ぬまで人々の眼前でも続き神が「新しい宗教」を起こすよう命じられた事も知ったそうです。
ハディーシャの愛が無ければイスラム教は生まれなかったかもしれませし、ハディーシャの死後ムハンマドは変容して行ったかのように私には感じます。
この預言のシステムがイスラムの裡で、「神」がユダヤ教やキリスト教と同じ唯一神でありその「預言」は唯一神からの原始ユダヤ教キリスト教を経て第三番目の完結した宗教であると同時に、人間が授かった最終結実したる教えとして認識されたのではないかと私は考えます。
数々の預言において神がムハンマドの肉体を通じアラビア語で直接話されたと成っている事で、その言葉をアラビア語で書き集められたものがコーランです。
ですから厳密には翻訳された物はコーランとならず、アラビア語に通じていなくてはムスリム(イスラム信者)とはならない事に注意しなくてはいけないと思います。
現在インドネシアでイスラム教徒人口は1億7000万人以上と言われ世界最大のムスリム国でありインドネシア語を公用語としているが多種多様な言語が日常語として使われている、ここの所の現状を今後見て行きたいと思う。
この「預言」よりムハンマドの布教となるのですが、先ず受け入れてくれたハディーシャと従兄弟と共に朗誦の言葉の収集と理解により宗教的実体へと形作られ、布教は親族への個人的対面から始まって最初にアブーバルクが加わったようです
ここら辺りまでがムハンマド個人の伝承として書き残されたものらしいです。
その後、親族への布教からから街の人々へとメディナへ移るまで12年の布教活動が行われましたが親友のアブーバクルら70人ほどの信者となるのみで大きな進展は得られず逆に迫害の対象となり弾圧され命の危険に曝されるまでになり西暦619年ハディーシャが亡くなります。
当時メッカは各地域から商品や文化が集まる砂漠のオアシスとして栄え多彩な宗教を持った交易商人達の快楽と利得の街でした。
ムハンマドが発する神の教え「預言」は人の完全な平等を掲げ快楽のむさぼりを禁じ、利益を貧しい者に分け与える分配を求め、神は唯一神のみであり一切の偶像崇拝をしてはならないと言うものでした。
故に街からも部族からも敵視され迫害を受け、ムハンマドの預言には呪いとも取れる言葉が残されています。
ムハンマドとアブーバルクはメッカを70人ほどの信者と共に逃げ出しメッカ北方300キロの道を経て西暦622年メディナへ追われ移住し信者集団としてコミューンを作り生活し出しました。
苦難を強いられても離脱しなかった70人の信者はこの時代と街の状況から道徳を心得た優秀な人々ではなかったかと想像出来ます、そしてこの移住によってイスラム共同体ウンマの基礎となったのでしょう。
イスラム教ではこのメディナへの移住をイスラム教の起源ヒジュラとしてイスラム暦を刻んでいます。
このメディナでムハンマドのウンマ(コミューン)は隊商同士利害対立をしていた隊商達に受け入れられ大きく発展し強い勢力となり武力をも持ちます、それはメッカからの隊商やユダヤ人との摩擦を助長し、事あるごとの「預言」に導かれ戦い勝利して行きます。この頃ムハンマドは勇猛な戦士としても名が知れて行きアブーバルクの娘9歳と結婚します。
そして遂にはメディナを収め西暦630年メッカをも占領しアラビア半島を翌年西暦631年イスラム教によって統一しますが西暦632年ムハンマドはメディナで病没します。
ムハンマドは最初の妻ハディーシャの死後アイーシャをはじめ10人ほどの妻を持つようになっていました。
そしてムハンマドの死去の後イスラム教はアブーバルクを筆頭に地中海沿岸諸国から中央アジア、西アジアと勢力を巨大化させて行きます。
 
次は世界史的にイスラム勢力を見て行こうと思います。




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 しばらくの間、断続的になると思いますがイスラムの文化社会について
思考をまとめる為に自分なりに書いて行きたいと思います。
 
2009年度調べ、日本にはイスラムモスクが50数件有るそうです。
写真は渋谷に在る東京モスク(東京ジャーミィ)
全国に有るモスクの大多数は小ぶりなビルに簡易的な装飾を施した物や
それとは判らないプレハブの建物が殆んどのようです
写真にも有るように白と黒の市松模様や建物上部の特徴的ドーム等は正教会の建物にも見られ、ビザンチン様式としての年代的に先に確立したものか
イスラム様式の流入であるのかも私の見るべき課題としてあります。
又、ムスリム(イスラム教徒)は12億~13億とも言われ世界人口の二割を占め
キリスト教は20億と言ったところ、次いでヒンドゥ8億、仏教儒教が共に3億~4億と言われます。
 
どうして、イスラム文化社会を見ようと思うのか。
イスラム文化社会は私を含め一般的に無知といって良い程の宗教文化であり、それは広大な文化圏なのです
「何故無知」なのかの「何故」を知ることで
私の裡に有る日本人としてのアイデンティティを認識出来るよう少しでも近づけるのではと言う試みのためです
実は、私や日本人の多くの人がそうだと思うのですが
仏教も儒教も神道もキリスト教も何なのか、その何か解らない歴史の上に私たちが生きていて
漠然とした印象だけでその実体を知らないのではないかと思うのです
私たちは「海外から見た日本は」とか言う番組や「日本人とは」と言う本を好みます
しかしその殆どが「他人からどのように見えるか」と自分の事ばかりが先行していて
実像を捉えることが出来ません
(私には音楽や美術もその傾向が大変強く感じられそれが日本の物真似文化となっている様に思えます)
自身のアイデンティティを見詰めなおすには他者を知らなければ見えてこないものです。
アイデンティティと言う言葉は哲学的な意味と歴史文化による属性として捉え
アイデンティティとは他者と対立させ見分ける事での区別認識ですから
他者に写る自分の姿や己自身の裡だけを見ていても解らないものが多く有るのではないでしょうか
 
私たちは欧米からの情報によって欧米が捉えた印象の又聞きの様にイスラム社会や文化圏について漠然としてみているに過ぎないように思えます
又、911以後の報道や西側諸国の対応を見て私たちの印象は変化しています
日本で数十年前までイスラム圏の文化の象徴のひとつとしてアラビアンナイトが有りました
今は随分とその存在は薄くなっているようです。
そのアラビアンナイトの事でさえ元はインドの口承芸能が平民文化の一部として伝わり文字化され、18世紀初頭にフランス語に翻訳され広まり内容も変化したものが日本に伝わったものであり 
私たちが見たものはヨーロッパから見たイスラム文化への印象により変容したイスラム文化だと言えるのです
ならば私たちが私たちの姿として見ている他者の目に写ったものの実像は何なのか
印象の逆輸入によって自分を見ている面があるならば、その認識を確かめることで実像と言うアイデンティティを知ることが出来ないだろうか、それが出発点なのです。

特別イスラムで無ければならない訳ではないのですが
知らないと言うことは既成概念に捉われないと言う大きな利点があります。
先ず取っ掛かりとして、欧米の人々がイスラム文化社会をどのように捉えているかを知ることで私たちが日本を見る目の見方も知る手掛かりに出来るかもしれません
それらが日本人のアイデンティティ認識へ近づく手立てとなればと思うのです
上記の様な目でイスラム文化社会から見詰め始めてみようと思います。

それではイスラム教とはを知る事が最初となります。




 
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